青春にも段階というものはある。
私はもう三十五歳でもう中年のおっちゃんだが、青春が終わったと実感したことはない。
青春にも若いひとが感じるものと、三十を越えた人間が感じるものとでは、当然だが質に違いがある。
分別がつく点、三十代の青春は楽だ。
ただ一概にいえない。
青春のなかにあるひとは青春が何か分からない。
青春にもいろいろな形があるんだろう。
恋愛をしているときがそれを一番感じるというひともいれば、何かに打ち込んでいるときに、青春を映画の一場面のように実感するというひともいることだろう。
でも、青春のなかにある人間というのは、青春というのが何であるのかはわからないものだ。恋愛にあるとき、これが青春かなと思っても、具体的に青春が何を意味するのかは分からない、ただ青春だろうと思うだけだ。
以前のブログにも書いたことだけれど、中年になったら青春というものが終わったと感じるひとがいるらしい。あるとき、ふと、そんなもの悲しさを味わう。
私は、三十五歳で年齢からいえば、充分に中年なのだけれど、私はまだそのような寂寥感を味わったことはない。私の青春は、まだまだしつこく私の体内に宿っているようだ。
それは喜ぶべきことかどうか、青春といえば若々しいようなイメージはつきまとうが、三十五歳の男がそれにどっぷりつかって、青年らしい顔をしているというのも、何も悟っていないようでみっともないような気がする。でも、味わえるうちはそれをじっくりと味わっておこうとも思っている。なにせ、青春も去ってしまえば、もう帰ってはこないだろうから。
そして、青春が分かるということは、そのひとはもう青春にいないのだ。
先日、町屋良平さんの「青が破れる」を久し振りに読んだ。
これを書いたとき、作者は確か三十二歳だった。いってみればもう中年だ。いまの私と年齢のうえではさほども変わらない。
読後、「町屋さんも青春にいるんだなあ」としみじみ思った。
主人公は、プロボクサーを目指している。それに向けてトレーニングに励むが、ほんとうのところは、自分が何者になれるのかは分かっていない。分かっていないが、身体を動かし、思考は敵だとして、あらゆる考えを振り払おうとする。明日も明後日もない、今このときしかない。
何かに打ちこめるものがあるとは、それだけで青春なのだろう。
主人公はまだ若く、彼を取り巻く人物もみな若い。
作者も若い、気持ちが若い。それでいながら、ちゃんと大人として書き分けるものをもっている。
登場人物にとう子という人物がいる。彼女は、主人公秋吉の友人ハルオの恋人で、難病を患い病院に入院している。もう長くはない。
この作品で私がもっとも好きな場面は、ハルオと秋吉がとう子を見舞ったとき、初対面の秋吉に彼女が「ボクシングやってるの?」とかいわないことだ。「はー空がたっかー」といって、喫煙所の空を見上げるのだ。秀逸。
こういうことは、青春に浸りきっている人間には書けないのではないか。青春にも段階があるのだろう。
中学生や高校生の青春は前しか見えないのが、強みであり弱みでもあるけれど、三十も超えると、情緒も落ち着き、いろんな判断ができるようになるので、三十代の青春というのが、もっとも楽なのではないか。もっともひとにはよるだろうけれど。
町屋さんは、若々しい感性をもっている、一方で大人しとして、批評する目ももっている。
小説というものは大人がやるものなんだろう。よほどの達観がないと、若いひとは良い作品は書けない。
詩的な直観というのは、若いひとの特権かもしれない、それでもって勢いで書けることもあるだろう。
でも、勢いというのもこれ、危ういものだ。中学生、高校生の恋愛が危ういように、勢いだけの作品というのはキズが多い。
では、また!
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