小説を書くには、ある場面から次の場面を生む連想力がなくてはならない。
連想をすることは誰でも意識せずに行っているもので、特殊な能力というものではない。
連想力を鍛えるには、普段から注意深くものを感じ、思考のペースを落とす必要がある。
小説を書くのに不可欠な連想。
晴れた朝の、窓に映る陽の光が、生暖かいワイキキのビーチを思わせる。確かにいま東京にいるのに。
多少なりとも小説や詩に親しんだことがあるひとなら、こういうふうな錯覚をおぼえることがあるだろう。
美しいものを、日常のなかにとどめておきたくない。あるいは、ひどい汚いものを見ても、そこにノスタルジーを映してしまう。
梶井基次郎が「檸檬」で書いた、異郷への憧憬というのも、彼独特の感性というよりは、もっと一般的なものなのだろう。
僕が住んでいる地域には広大な公園があって、緑豊かで大きな池もいくつもある。
あるランニング中の女のひとが桃の木のたくさん植わった丘を見て「オーストラリアみたい」と言った。
またこれは私の母になるが同じ公園のバラを見たとき「イギリスみたいやな」と言った。
どちらも、梶井のような詩心はまっくないようだけれど、あるものを見て、別のものを連想させるというのは、特別の才能の持ち主でなくとも、ごく普通に日常生活でやっていることだ。
で、これは小説を書くさいにぜひとも活用したい能力だ。
小説家も大きくふたつのパターンに分かれていて、事前に作品の内容を最後まで計画してから書くタイプと、はじめから何も予定も立てずにいきなり書いて行くとタイプとがある。
日本の作家では前者は、三島由紀夫がそうで、後者は川端康成。
おそらく海外も含めて、近代文学では事前に計画を立てる作家は多いはずだ。
潮流が変わったのは、カフカなどが出て来たあたりで、「物語」を書けない、あるいはあえて無視するといった人々が文学に市民権を得始めたころ。
日本でも最近はカフカの影響が強い作家は多い。
しかし、事前に計画を立てて書いて行く三島由紀夫のような作家であれ、細部のもろもろの描写まですべて書く前に決めているわけではなく、そこはやはり即興的なアイデアに頼るもの。
カズオ・イシグロも計画的な作家だけれど、細部の風景や人物の描写にこそ魅力がある。
で、この細部を書くのに、先に言った、連想がものを言うのだ。
小説家の連想力。
小説家は、何かを描写するとき、頭のなかで必ずイメージをふくらませる。
人物が話をしているとき、そこに木があるのか、それともビルしか建っているのか、そこが曖昧な作家はまずいない。
東京ならはっきりと東京のどこかありそうな風景を思い描く。
作品にとっての適切な風景を、作者はイメージする。
人物の会話とか、人物の動作につなげて場面を「連想」するのだ。
仮に、カズオ・イシグロにこの力がとぼしければ、風景は貧弱になり、人物は平板になってしまう。
ある場面が別の場面をみちびく。
これは、晴れた日に、東京にいるのに不意にハワイを思うのと、同じ種類のものだ。
小説を書いて行くとき、筋立てやキャラクターの造形に時間をかけるのも大事だろう、しかし、連想を鍛えてないと小説は次の段階まで行くことはできない。
連想はちょっとしたことでできる。たいていは意識しなくてもできる。
ある景色を見てきれいだと思うことが連想のはじまりだ。気持ちを落ち着かせることと、思考をしずめることによってできる。
思考をしずめる。詩人は考えないものだ。
では、また!
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