ベテラン作家の話。 [短い小説]

小説

混みあった電車の中で、桑原はスマートフォンで週の予定を確認していた。

明後日は、新人賞の下読みメンバーとの打ち合わせがあったし、その次の日は、雑誌のデザインを一新するとかで、編集委員の会議があった。

しかし、それよりも、気が重たいのは、ベテラン作家の田野瀬の原稿が大幅におくれ、もし、来週までに間に合わなかったら、他の作家の作品に差し替えなければならないことだった。

田野瀬は、遅筆だった。けれど、締め切りを落とすということはかつてないことだった。

今回の作品も、得意の短編をいくつか書くくらいであったので、そう気負うこともないはずなのだが、と桑原は思った。

それで、今日は、田野瀬との打ち合わせがあるのだ。打ち合わせといっても、一緒に酒を飲んで、話を聞くくらいであるのだが、ともかくそれで進捗は知ることはできる。

電車は駅に着いた。まだ夏の終わりで、日が暮れるのが遅い。

田野瀬は、いつもの通り、駅前の古い喫茶店を待ち合わせに指定してきた。

暗くなるまで、ここでひと息つくのが田野瀬と会う時の習慣となっていた。

店に入ると、田野瀬はすでに来ていた。待ち合わせの時間は、まだ三十分も先だから、ずいぶんと早い。田野瀬は新聞を読んでいた。

桑原が何かいおうとする前に、田野瀬が、

「いやあ、じっとしていられなくてね」

新聞を畳んで咳払いしながらそういった。

「だいぶお待たせしましたか」

「昨日、競馬に行ったんだよ、初めて。いや競馬に行こうとしたんだよ、でも途中で、気持ち悪くなってね、自分がどこに行こうとしているのか分からなくなった。更年期障害かもしれんとおもったが、すでに一回経験しているからそれもないとは思うんだけどね」

田野瀬は、コーヒーカップを持ち上げて、ひと口すすった。桑原もホットコーヒーを注文した。

「チェーホフはかなわんね、全集読んだら、文字が浮いてきてね。チェーホフを読んでいるときにしかそれは起きないんだ。他の作家では起きない。この前も、文庫本で、『犬を連れた奥さん』を読んだら、ちょうど海を眺めるシーンで文字が渦を巻き出すんだよ。でも、いったように、俺はもう更年期は一回経験してんだ」

「書く方もお苦しいわけですか」

桑原はそれとなく探ってみた。原稿はどうなっているのだ。

「ドストエフスキーの作品は、もうだいぶ以前に読んで、記憶もあやふやだが、親父さんが頭を割られるシーンがあったよね、あれ読んだとき、俺は、嫌悪感があったね。自分の頭が割られるような気がして、背中の方で寒気が走ったんだ。でも今はどうしてか、自分が頭を割る方の人間であるような気がするね。頭蓋骨がバキッと割る感触が分かるような気がする。俺の右手がすでにそうしたような気がするよ」

田野瀬は文学の話をすることなど滅多となかった。彼はそれだけいうと、くすりと笑った。

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