作家のエッセイを読むと、不思議なことがよく書かれてある。
先日、川上弘美さんのエッセイを読むと、居酒屋のカウンターで蛙が放し飼いにされているという場面があった。なかなかそういう場面には巡り合えない、いや、その場にいても覚えていない。
作家とはやはり「見る」ひとなのだ。
作家とはちゃんと「見る」ひとのこと。
まがりなりにもエッセイを書いているので、少し変わったこと、日常の不思議なことを書きたいともおもうけれど、そういったことはなかなか起こってはくれない。
毎日、同じような時間に起き、同じような作業をして、同じようなご飯を食べ、同じような時間に床につき、その間何があったかというと、特に珍しいことは起こらない。
川上弘美さんのエッセイで「雨蛙」(「ゆっくりさよならをとなえる」に収録 新潮社)といものがある。雨蛙というとおりに、雨蛙だけを扱ったエッセイではないのだが、ちょっと信じられないような場面もあった、それは、川上さんが訪れた下町に居酒屋のカウンターで蛙が放し飼いにされているということだった。
私は、二十代のころ、よく居酒屋には行ったのだけれど、そこで、不思議なことがあった覚えはない、まして、雨蛙を見かけてことはない。
小説家というひとたちは、妙なことに出くわしやすいのだろうか。
私は、井伏鱒二のエッセイや小説を長年読んできているけれど、彼の作品ではそう突飛なことが起こるわけではない。エッセイでも旅について、骨董について、作家仲間について、幅広く静かに語っているけれど、何かUFOのようなものを見たとか、動物がしゃべったような気がしたとかと、超常現象的なことはひとつもなかった。
けれど、井伏さんの小説やエッセイでは、いつも人物がどこか不可思議なのだ。友人が突然、不機嫌になったり、あたまの働きがおかしくなった元将校が、戦争が終わっているのに、村人に号令をかけてきたり、昨日まで、しゃべり好きだった大阪の商人が急に口を聞かなくなったり、井伏さんにとっては、人間ほど、奇妙な生き物はなかったのではないだろうか。
彼は人好きで、旅行に行くにしても、作家や釣り仲間と一緒に出掛けるのだそうだ。弟子もたくさんいて、彼らも時を見計らって、いそいそと師匠宅へご機嫌伺いに訪れるのだった。
ひととの交流が多いというだけでは、もちろん、人間の不可思議さは悟れないだろうけれど、開高健がいうところによると、井伏鱒二は非常に鋭い目つきをしていたそうだ。
井伏さんは、若い頃、画家を目指していたというから、観察することに関しては、非常に厳しいところがあったのだろう、風物のちょっとした変化にも敏感だったのだ。友人がちょっと不機嫌になっても、それをすぐに察知したに違いなく、けれど、井伏さんの小説家らしいところは、それに妙な理屈や解釈を持ち込まないところだ。人物の不可思議さをそのまま置いている。
不思議なものを不思議なものとしてただ「見る」というのは、案外、難しいことかもしれない。いや、実は逆かもしれない。ただ「見る」ことができるひとが、不思議なことに出会うのだ。
川上弘美さんの「雨蛙」にしても、多くのひとは、酔っぱらって家に帰ったら、居酒屋のカウンターに蛙がいたことなんて忘れているだろう。日常は重く、蛙にかまっていられない。でも、川上さんはちゃんと蛙を書く。ちゃんと覚えている。ちゃんと見ている。
私は、さっき、同じような時間が過ぎていくと、書いたけれど、そう感じることころに、私の詩心がない。いや、私も毎日、同じような日が続くとは思ってはいないが、振り返って何も見いだせていないところがある。
作家は記憶力が優れているとよくいわれるが、私はそのあたりまったく恵まれていない。よくも悪くも私はおおざっぱだ。
では、また!
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