優れた作家が後世に読まれるとも限らない。読まれる作家は俗なるもの。

エッセイ

優れた作家が死後も読まれるとは限らないのは、本屋に行けばよく分かるものだ。

私はひところ中上健次をよく読んだ。彼はまぎれもなく優れた作家だ。

けれど、いまでは一部のファンを除いて誰も読まない。

歴史は、分かり安さを好む。

死んだあとも読まれる作家には分かりやすさがある。

昨日、寝る間際になって、中上健次の「風景の向こうへ 物語の系譜」という本を少し読んだ。

といってまだほんの数ページなので、これを論じるだけの情報を私はもっていないが、ふいにこの作家にもの悲しさを感じてしまった。

作家の書いたものにたいしてではなくて、作家として生きたひとりの人間を記憶するものが、徐々に減っていくことについてだった。

中上健次は間違いないなく優れた作家だ。

思想は違っても、作品のスケールやインパクトでは、中上は三島由紀夫に匹敵する、あるいは、それ以上に深いものがあると私は思っている。

フォークナーの系譜を行きながら、フォークナーの亜流に失しない、独自な世界観を築いた。

彼がそのチャンスに恵まれていたら、世界文学にけして小さくない痕跡を残したろうと思う。

しかし、運命はそうとはならなかった。彼の小説は翻訳されこそすれ、広く読まれることはなかったし、日本国内においても、現在は、一般のひとで彼の名前を知るものはまずいない。

優れた作家が、死後も読まれるとは限らないのだ。

もちろん、彼の小説がまったく支持を失っているのかというとけしてそうではなくて、一部の文学通や作家、そして批評家などからは、いまでも彼への発言は多くて、熱烈なファンもいる。再評価、という点では、確かに、それなりのことは着実に行われている。

けれど、さっきも書いたように、一般の小説読者(月に一冊は小説を読み、芥川賞なんかにもちょっとは関心があるというような)にはまったく彼の名前が知られていない。

中上健次に良い作品がたくさんあっても、彼が三島由紀夫や安部公房や、あるいは遠藤周作といった、同時代を生きた(彼らのほうがひと世代上だけれど)作家のように読まれることはない。

死後にも読まれる作家に、何か共通点があるのだろうか。

ある批評家は、俗なるものがなければ、ひろく読まれない、といった。それはあるのかもしれない。

例えば、ドストエフスキーにしろ、トルストイにしろ、難解な部分もある一方、彼らの念頭にはロシアの庶民がいた。

あるいはヘミングウェイを見てもいい。彼は優れた短編を残し、長編においても美しい情景描写は、そこだけとっても充分にアートとなっている、けれど、彼の長編を「純粋文学」として、高く評価するひともいない。

一方で、フォークナーは、純度の高い芸術小説を書いた。そして、偉大な痕跡を世界文学に残したが、彼の小説がヘミングウェイのように読まれることはないし、ドストエフスキーともトルストイとも違う。

私は三島由紀夫には詳しくないが、彼にも多分に「分かりやすさ」というものはあるのではないか。

「午後の曳航」にしても「愛の渇き」にしても、けして筋が難解であるのではない。文章は晦渋とも取れるが、リズムはむしろ多くのひとを迎え入れている。彼のなす文章の音色は、ひとの美的感覚の要点をついているので心地よいほどだ。

構成もしっかりしているので、記憶にも定着しやすくなっている。

ところが、中上のその個性の強い文体は、まず多くの読者を始めから拒否している。

文体が世界観を構築していて、文体を読者がしっかりと受容しないと内容が理解できない。「筋」の小説ではないからだ。

そしてその文章もけして美しいものではない。上手いとか下手とかと、もちろんそういうものでもない。曖昧な表現になるが、土地から湧き上がる瘴気のようなもので、読むものにとって心地良いということはなく、むしろひとによっては苦痛でさえある。読み手を選ぶ点では、日本文学で屈指だろう。読みやすい文章ではけしてない。

とっつきにくいものは、受け継がれにくいのだ。

では、また!

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