書きたいことはなくていい。文体と世界観。

エッセイ

文章を書き始めたひとがまず初めにぶつかるのが、何をどのように書いたら正解かということだけれど、こと文章を芸術と考える場合、そこに明確な答えというものはない。

何をかいてもいい。文体を持ってさえいれば、文章の方が何を書けばいいか教えてくれる。

テーマはいらない、意図はいらない、計画もいらない。文体と世界観。

おそらく作家を志したことがあるひとなら、保坂和志という作家の名前を聞いたことがあるだろう。

作家志望にとってまず課題となるのが、何をどうかいたらいいのか分からないというものだ。何をどう書いたらいいのか、という問いについて明確な答えがあるような気がしていて、そこから外れると、小説の新人賞に受からないような気もしてくる。

しかし、保坂さんは小説はそういうものではない、とはっきりといっている。

小説とは自由なものだ、そして、小説が多くの思考からなりたっている以上、思考も自由でいいのだ。

先日、何かの雑誌に坂口恭平さんのインタビューがのっていた。彼は毎日、原稿十枚以上の文章を書くらしく、それを習慣にしているということだった。インタビューで、保坂さんの名前が出て来て、私はまったくそれを奇異には思わなかった。むしろ、繋がるべきところが繋がったような気がした。

坂口さんは、エッセイでもブログでもTwitterでもいっていることだけれど、事前に何かテーマを決めて書くのではないそうだ。自分の気分、その躍動感、リズムにそって文章を書き連ねて行く。

文章とは面白いもので、いちど文体なり、リズムなりを身につけると、それが自然と世界観を開拓していく。とにかく、言葉が言葉を生むような感じで、ほとんど他人任せ(あるいは文体任せ)といってもいいくらいに、文章のリズムにそって、筆を(あるいはパソコンのキーボードを)動かしていると、一応まとまったものはできる。いや、事前に計画性をもって書く文章より、思いもよらないアイデアにぶつかりやすいので、変にテーマを絞るより、そちらのほうが世界観の幅が広かったりもする。

ついこのあいだ読み終えたばかりだが、「土になる」という坂口恭平さんの本がある。彼は熊本で生活をし、畑を借りて、農作業もしている。その暮らし方のエッセイあるいは日記というものだった。

やはり坂口さんは文章に計画はもちこまない。本にするのだから、ある程度のコンセプトは始めに決めておかねばならないということもあるだろうが、ひとつひとつのチャプターについて、事前に何を書こうというような試みはないようであった。ほとんど、個人的な日記のように文章が進んでいく。

しかし、「個人的な日記」とはまた違って、あくまで、自分の身の回りの変化について、観察する目を休めないのだ。植物の生長、野良猫の様子、人々の感情の動き、それらについて彼はあくまで「作家」であるのだ。

私はさっき、保坂さんの例をだして、小説は自由だ、何を書いてもいい、といったが、自由に何かを書いたからといっても優れた小説にはならない、あるいは新しい世界観は築けない。作家も始めはだれでも素人だけれど、書きたいものを書くと、たいていは自分の病気の話だったり、恋愛の苦労だったり、生きづらさだったりと、「個人的な記録」に終始してしまう。つまり、それは世界観がないからだが、さっきの話に帰るとそれは文体がないからだ。

坂口さんも作家なので、「個人的な記録」が読者を辟易させることは知っているだろう。しかし、彼のエッセイが個人的な話を超越しているのは、事前の計画性やコンセプトの設定にあるのではなく、文体に世界観を持っているからだ。

文章とは自由なものだ。何を書いてもいい。しかし、それが価値を提供するかどうかまた別。訓練と忍耐、他の仕事と同じようにそれが必要。

では、また!

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