働けなくなったとき、やはり色々と考えてしまうもので、それが気持ちを落ち込ませる原因になってしまう。
あまり落ち込むと生きる気力も失うこともあるので、そうなる前に、何か小さなことでも始めるのが良い。
悪いことのなかにもよいことは作っていける。
働けなくなったときに分かること。
世の中何が起こるか、分からない。
突然働けなくなることもあるかもしれない。
それが病気なのか、事故なのか、それとも大失敗をしでかして凹んでしまったからなのか、とかくそういうことは予測もできない。考えたら不安。
でも、働けなくなったらどうなるかとは、働けなくなったときにしかわからないものだ。
私も、わけあって働くことができないのだけれど、そうなってから色々と気づかされることが多く、そういうことはそれ以前には考えもしなかったことだ。
なってみないとわからない、やってみないとわからない、とはよくいったものだ。
働けなくなったら、精神的に荒んでいくのは仕方がない。
働けなくなって解放されたと思うひともいるかもしれないが、それも長くは続かない。
「俺、このまま、ひとのお世話になって生きて行くのかな、情けないな」と時間が経てばそのように思うものだ。それも気づきのひとつ。なってみないとわからない。
少し前にNHKでドキュメンタリーをやっていたが、そこに働けなくなった元ラーメン屋の亭主が出ていた。
彼は生活保護を受けていた。
ときどき居酒屋でビール一杯をゆっくり飲んで憂さを晴らすようだ。
その彼が、住まいとなっているアパートの通路の草取りをしていることころが紹介されていた。
自分のところだけでなく、お隣さんの分まで草取りをしていた。
「何かやっていないと気がおかしくなる」というのだった。
そうだ、働けなくなっても、頭が動いてしまうひとは、いろいろと考えてしまう。
時間があるので、それに記憶はまだまだ元気なので、色々考える。
「生きていて意味があるのかな」とこの老人は考えるそうだ。これもなってみなければわからない。
「生きてりゃ、よいことも悪いこともあるさ」
でも、とことん落ち込むまえに、何かやらないことには生きていけなくなる。
先の老人が草抜きをしたように、例えば、家事のひとつでもできることはしないと、精神はすぐに荒んでいく。
この荒みというのは働けない身にはかなりこたえるのだ。
チェーホフの小説で「生きてりゃ、よいことも悪いこともあるさ」と百姓がいう場面がある。
そういって年若い不幸な娘を慰めるのだ。
生きてりゃ、よいことも悪いこともあるさ、そうだその通りだ、そして、働けないとは、まさに悪いことに違いない。その部分だけを見ると不幸に違いない。
しかし、そんな「悪いこと」のなかにも、よいことはあるし、よいことは作り出していける。
もし、あの老人が草取りをしなかったら、どうなっていたろうか。
この老人は脳梗塞を患っていた。何も作業をしなかったら、おそらく再発したろうし、生きる気力も失っていく。
草取りは、老人にとって、生きるためのリハビリになっているのだ。
「何かやっていないと気がおかしくなる」と老人。
そうだ、でも何かやればよいだけの話だ。
いまから職安に行って仕事をみつけろとかそういう話じゃないんだ。
家事ができるひとは強いし、趣味をもっているひとは強いし、どんな小さなことでも自分でやろうとするひと(仮にそれが前向きな気持ちでなくとも)は強い。
とかくどうやっても生きていかなくてはならない。
仏教で四苦八苦というように、世の中はしんどいんだ。生きてくのはタフだ。
でもただ生きてりゃいいだけなのかもしれない。「情けないな」と思いながらも生きてりゃいい。
「生きてりゃ、よいことも悪いこともあるさ」そしてよいことは悪いことのなかにも作っていける。
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