宗教の原理主義、包括主義、多元主義。異なる他者をどう受け入れるべきか。

エッセイ

トマス・マートンに見る、他宗教の受容

神学者ローレンス・カニンガムが、トマス・マートンについて言及している。

マートンは晩年、東洋への関心を深め、特に仏教に対して造詣が深かった。

しかし、もともと、キリスト教とは排他的な宗教だ。救いにおいて、キリスト以外の存在を認めることに積極的ではなかった。つまり、修道士である彼にとって、他宗教への理解は非常な冒険となるし、リスクともなる。

カニンガムは、マートンについて、容易な混合主義に堕さなかった、といっている。

ある神学者によると、宗教における信仰の形態は三つのパターンに分類できるという。

ひつつは、原理主義。これは、ニュースでもよく聞く言葉になってしまっているので、解説も不要だろう、要するに、原典に忠実であろうとするあまり、それ以外の価値観に対し、極端に排他的になることだ。

イスラム原理主義は、よくテレビでも聞くことだろうが、キリスト教にも原理主義は存在する。例えば、聖書の創世記は、当時の文学形式が書かれたもので、物語性と様々な象徴的な暗示を含んでいる。つまり、科学論文やノンフィクションではないわけだが、原理主義者は創世記の記述を科学的に誤りがないとし、地球は四千年の歴史しかないなど、一般に認められている自然科学のディスコースを否定している。

次は、包括主義。カトリック教会がこれにあたる。他宗教、他教派の価値を認めながらも、思想的にはすべて、ひとつに世界観に集約する。例えば、仏教やイスラム教のなど、他の宗教の価値を認めながらも、キリスト教こそが絶対であり、他宗教はその世界観の秩序のもとに置かれている、など。

最後は、多元主義。これも読んで字のごとくで、様々な価値観が、それぞれ並列して、あるいは、様々に散在し、ひとつの価値観のもとに集約されないとこを主張する。例えば、キリスト教徒であっても、仏教徒の価値観、世界観を否定せず、また自分の価値観のもとに包摂しない、など。

この考えは、現代の相対的な世界観のもとでは、かなり受け入れやすい考えだし、特に日本人にとって、この価値観に魅了を感じるひとも多いだろう。

よく、日本ではこう言われることが多い。日本は多神教の国であり、様々なほかの宗教に対しても寛容である。おそらくそういう面ももちろんあることだろう。

しかし、日本の歴史を紐解けば、キリスト教にはかなり不寛容であったし、現代でも外国から入ってくる文化に対し、不寛容さを示す場面も多くある。

つまり、多元主義といっても、響きはよいとして、それを信仰のレベルで、あるいは、政治的、実際的な場面でこれを実行するにはかなり困難があることがわかる。

そこで、トマス・マートンだ。僕は先にいったように、キリスト教とは本来、排他的な宗教だといった。キリストによる救いこそが、絶対であり、他宗教の価値観は非常に優れていたとしても、キリスト教の救いの論理にとってかわるものではない。

カトリックの修道士であるマートンもこの考えのもとにあるが、一方で、彼は、東洋のメディテーションが西洋のそれにくらべて、非常に優れたものであるとも認めていた。

カニンガムというところの、安易な混合主義にマートンは陥らなかったが、自分とかなり異なる人たちの価値をも鋭く見抜いていたのだ。

僕は、これはマートンが詩人であったからだと思う。理屈で考える人は、ものを分類したがるが、詩人は、すべてをそのままで味わおうとする。

優れた他者を観るとき、理屈は可能性を狭めてしまうが、詩人はむしろ、それを深めようとする。

では、また!

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