考えは手放せないもの。そういうものだと自覚する。

エッセイ

ぐるぐると同じことを考えているから、落ち着きがなくなる。だから考えないでおこう。それはしごくまっとうな考えだと思う。

しかし、やはり考え事をやめようと思うのもひとつの考えなのだ。思考ほどコントロールしがたいものもない。

思考は思考ではコントロールできないと自覚する。

「考えを手放そうとするのも、考えです」というのは、ひところ私がよくYouTubeで聴いていた禅僧の講話のなかででてきた。

やはり、禅のメディテイションは徹底している。中途半端なところで誰もが感じてしまう矛盾についてちゃんと答えを持っている。

キリスト教はどうか。

執着を取り除こうとするのも立派な執着だけれど、キリスト教の場合、そのあたり別様のアプローチをもっている。

「貧しい者は幸いなり」という言葉は聖書にさほど、親しみのないひとでも聞いたことがあることだろうと思う。

イエスは幸福について人々の価値観を反転させてしまったわけだが、ここで日本語訳特有の誤解が生じてしまう。

貧しい者とは、貧乏人のことだと、この文脈では読み取れてしまうが、原文だと「霊において貧しい者」となっており、私はかつて、英語とフランス語でも聖書を読んだが、そこにはちゃんとthe poor in spiritとなっていた。

ここには、とうぜん貧乏で食にも事欠くひとも含まれるが、もっとひろい意味にも取られ、それこそ、執着を取り除こうとストイックに励んだが、けっきょくは無力を感じてしまうひとも含まれる。

執着を除こうとするのも執着。そこに対して、自分自身の能力に拘泥しない、というのがスタンスだ。

さて、冒頭から話が大きくなってしまったが、昨今のマインドフルネスのブームで、思考に対する考え方もずいぶん変わって来た。

一時期はロジカルシンキングや数理思考というようなタイトルの本が本屋の一番目立つところに平積みになっていたりしたけれど、いまでは、その横にマインドフルネスの本が置いてあったりする。

企業で取り入れられているこのメディテイションはとくに凝ったことはしない。

一定の時間をただ座るだけだ。

そして、メディテイションから宗教性を排除している。ようするにテクニックだけを取り入れようということで、おそらく、このあたりでも、本職の禅僧などのあいだでは議論があることだろうと思う。

まあ、それはいったん置くとしても、考えに忙しくなって、落ち着きがなくなったと感じるひとがふえたことは、このマインドフルネスのブームでよく分かることだ。

ひとが忙しくなった一番の原因はやはりスマホを使う時間が増えたからだろう。

スマホは徹底して、人々の感情を刺激して、思考を働かせるように設計されている。

スマホ依存という言葉がある通りに、例えばTwitterを頻繁に確認してしまうのも、気にさせるようにそのプラットフォームがそのように設計しているからだ。

私たちはなかなかスマホの海から出られない。

で、マインドフルネスがいいとなって、とかく思考を休める「時間」から作ろうというのだ。

冒頭に書いたように、考えを手放そうと努力するひとは多いだろう。

考える、そして、ネガティブになる、忙しくなる、辛くなる。このサイクルはだれでも理解できる。

しかし、そこから離れようとするのも考えだ。

「貧しい人」というのが無力感をも意味するなら、思考によって時間に余裕のないひともそれに値する(もっとも貧しいとは、やはり徹底して自分を低くすることにあり、現代人にはなかなか理解が難しい)。

思考の運動の前では、人間はほとんど無力だ。自分の思考さえも自分でコントロールできない。

でも、それに自覚的である必要はあるだろう。持病のようなもので、長い付き合いとなる。そう思うと、執着が少し減る。

では、また!

コメント

タイトルとURLをコピーしました