考えることは孤独を奪う。
ひとりで何かを考えていても何かと時間を共有してしまっている。
ギリシャ哲学を考えるひとはギリシャの賢人と同じ時間をともにいるわけだ。
ものを考えると孤立感から逃れる。
ものを考えずに、身体で受け止めるしか孤独は感じることはできない。
考えること自体は孤独。でも何かと時間を共有している。
ブログを書くようになってからエッセイをよく読むようになったのだけれど、たいてい気楽に読めるものは、友人同士とのじゃれあいの話であったり、ポジティブな生き方をうたったものであったり、ようするに読み手の暇つぶしを満たしてくれるもので、こちらの思考を刺激しないものだ。
気楽な文章というのは、まあそういうものなのだけれど。
深いところで感じ取ったり、考えたりすることを要求してくる文章というのは辛い。
頭を動かすのは、仕事でもなんでも非常に労力のいることで、それは読書でも同じ。
考える読書は時間も食うし、それだけ孤独になって、著者と向き合わなければならない、友人と話しているような誤魔化し合いもなく、著者が知的なら、こちらもそこまで知性を高めなければならない。
自分が大そうなものでなく、案外ぼーっと生きていることに気づかされるのも、読書ではよくよくあることだ。
考えるという行為自体は、孤独なこと。
誰かと話し合って解答を見つけるにしても、それまでに、延々ひとりで考えている時間がないと、何か会合があっても意見もいえない。
答えは見つかりそうもなくても、とにかくひとりで考える。
考える習慣とはこうしてできて行く。
しかし、考えることがいかに個人的なもので、孤独に見えても、まったく孤立しているわけではない。
ギリシャ哲学について考えをめぐらしているときは、ギリシャの賢人がともにいるし、文学について考えているときは、はっきりと誰か特定の作家を意識しているはずで、それが宗教でも美術でも政治経済でも同じことだ。
何かについて考えるということは、すでに何かと誰かと時間を共有している。
孤立感から逃れるために考える。
誰であったか学者が、本を読むことは、愛の行為だといった。
著者のために時間をさき、そのひとのことをずっと考えているのだから。
考えることも同じだ。何か対象についての愛がなければできないことだ。
しかし、これは執着とか業とかということもできるのだけれど。
ものを考えると確かに孤立感から目を逸らすことができる。
あるいは孤立感から逃れるために考えているということもあるだろう。
たったひとり暇を持て余して哲学的なことを考えているときより、好きでもない上司と飲み会に行っている方がよほど孤独を感じるなんてことは、生きていたらいくらでもある。
考えることも、読書することもそうだけど、これこそが重要なことを誤魔化しているともいうことができる。
本当は友達もいなくて、将来にも不安で、というときに、別のことに没頭できるひとは、友達がいなくても問題なく、将来にも不安はなくなる。
考えることも、趣味みたいなものだ。
人生の重要なことを直視しないようにさせる。
哲学者はおそらく、もうじき死ぬと分かったとき、それについても哲学的に考察するだろう。
そうすることによって、死というものを直視しないようにするのだ。
死について考察することと、死を直視することは違うはずで、死をまっすぐ見ることは、むしろ、考えることから離れ、言葉も手放し、身体でずしっと受け止めることではないだろうか。
考える限り、彼は死から逃れようとする。
つまり、考える限り、彼には誰かが共にいて、たったひとりで死に向かって行くわけではないのだ。
私たちは重大な問題を解決するより、それを見ないがために考えている。
では、また!
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