神学に学ぶ、「あいまい」な知恵。

エッセイ

神学というと、西欧哲学によく見る理詰めで、科学的なアプローチをまずイメージするひとは多いように思う。

しかし、トマス•アクィナスの哲学に見るように、結局は、神学も理論ではすべてを把握はできないと結論は行き着く。

この「あいまいさ」こそ神学に見る知恵だ。

トマス•アクィナスに見る知性への信仰。

神学という学問があるが、西欧の人文学の例にもれず、かなり理詰めに、かつある論証のフォーマットにのっとって、議論が構成されていることが多い。

最近トマス・アクィナスの神学大全を読み始めたが、ここからも理論の形式化と理論そのもの(つまり言葉そのもの)への信仰というものがかなりつよく読み取れる。

もっとも「理論への信仰」といっても、それは西洋人にとってはごく当たり前の感覚かもしれず、あるいはそれは日本人にとっての「侘び」や「寂び」といったものと同じかもしれない。実際、トマスはある決まった方法をえいえんと繰り返しているが、それはその方法論が彼にとってはもう呼吸することと同じことであったのかもしない。

彼はまずある問いを立てる、それに対し、ある常識的な、あるいは学問上もっともらしい仮説Aを立てる。つぎにそれに反論する形で、もっと伝統的でかつ独創的な仮説Bを立てる。次にこの方法論の優れたところは、トマス研究者の山本芳久氏によると、AとBのうちどちらが正解かという解答はせず、第三の道を、あるいはより独創的な説明を加えているところにある。

よく日本のユーチューブなどに見られるような、片方をもう一方が論破することにまったく重きをおいていない。しかし、創造的な議論とは本来、こういうものだろう。

だが、一方で、東洋人からすると、トマスの知性への崇拝というものはすさまじいものがあるように思われる。

彼は、神とはなんぞやという問いに対して、被造物(つまりこの世の色々な物体や現象)を分析することで解答をしめそうとした(もっとも、彼は神を解明できると信じていたわけではなく、教会のために神を部分的にも理解するためのある程度体系だった学問が必要だと考えた)。そのため、世の中のあらゆる現象に対し、仮説をたて、法則を見出そうとした。これは、短い言葉でほとんど直観的にものごとを捉えようとする東洋の哲学とはかなり違うところだ。

神学における究極の方法論は、「あいまい」。

しかし、そのトマスだが、さきにもちょっと書いたことだけれど、神を完全に解明できると考えたわけではない。

被造物をいくら観察し、分析したところで、神の全体は把握できない。なぜなら、彼は、被造物には神の働きのすべてが隠されているわけではないからと考えたからだ。神はそれ自体で独立し、ほかに依存する存在を必要としないが、被造物はそうではないからだ。

先に、僕はうっかり「トマスには知性への崇拝がある」とかいたが、トマスは知性をどうとらえていたかを考える必要がある。

物事を分析し、判断し、ときには、目的に達成のために自己を律し、という作業はすべてトマスにとっては「理性」というカテゴリーに入る。

それに対し、知性とは直観力もふくめた人間の能力全体で、事物全体を把握することにある。つまり、理詰めのアプローチだけに依存しないのだ。

つまり、トマスの哲学は、二元論ではなく、日本人ふうにいえば、あいまいなところを残している。

他にも山本芳久氏によると、トマスは、自己否定か自己肯定かのどちからの解答には寄らないというのだ。ここにも二元論では説明できないものがある。

神学というのは、いかに余白を納得できる形で残しておくかにある。

プロテスタント神学でも、佐藤優氏は、「旅人の神学」としてこの学問を説明をしている。正教会でも「人生は巡礼」という考えがあり、過ぎ去るもので、完全なものは説明しきれないと考える。

余白とあいまいとは少し隔たりのある概念だが、こと神学において、あいまいさというのは、理解において妨げになるものではない。日本人にはこのほうが分かりいい。

では、また!

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