物語の中心はありふれた日常であったりする。

person holding a book エッセイ
Photo by Aline Viana Prado on Pexels.com

物語の中心は実は、ありふれた日常の風景であったりもするのだ。

吉田篤弘の小説に「月と6月と観覧車」という短編小説がある。

この小説には猫が登場する。そして、猫が話を膨らませて行く。

日常というものは、小さな事象の連続であるのだが、実は何でもないそうした日常の出来事が僕らの生活を支えている。

物語は、現実世界の一部分を切り取ったもの。

吉田篤弘の短編小説で、「月と6月と観覧車」というものがある。

遊園地の駐車場の整理員をしている男女ふたりの物語なのだが、この駐車場には客はめったに来ず、仕事らしい仕事もほとんどない。もっぱら、主人公の「私」とバリカンとよばれる同僚とが何気なく話しているか(しかし、そのどれもがほんの少し現実離れしているようようだ。詩のように)、駐車場に水を撒いているか、とにかく閑を潰す以外にすることはない。

そんななか、黒い猫が現れる。駐車場は、海風がひどく、「凹凸ができる」くらいに砂が溜まっている。そこに、黒い猫がねそべって、月の黒点のようだと、バリカンはこの猫をコクテンと名付ける。黒点とは太陽にあるのでは、と主人公が訂正しようとするが、バリカンは気にしなかった。

物語というのは、なにか中心的な事物や事象があるほうが、作品に締まりがでやすい。例えば、ドストエフスキーの「罪と罰」では、ラスコーリニコフによる殺人が中軸となって物語は進み、トルストイの「戦争と平和」では、そのタイトルにある通り、ナポレオン戦争が中心的な事象として語られている。

もちろん、小説のすべてに始めから中心が添えられているのではない。漱石の「草枕」は、もっぱら、主人公の心象風景でストーリーは進み、この小説はどこに向かっているのか、はっきりとしない。でもそれがいい。現代の小説でも保坂和志の小説は、もっぱら作者の「意図」というものを外そうとする。文体の運動に任せ、あらかじめテーマや、中心的な事件を設けないのだ。

しかし、「草枕」や保坂和志の小説が物語かといえばそうでもない。作者自身ペンでもって、当てのない旅を楽しんでいるようなもので、どこへ行きますかと聞く方が野暮なのだ。

しかし、多くの物語小説は何か中心的な軸がある。吉田篤弘の「月と6月と観覧車」が物語小説かといえば、少し、疑問が残る。

短編小説だから、物語がない、というのではない。井伏鱒二の短編を見れば、あるいはヘミングウェイの短編を見れば、そこにはあきらかな物語性がある。

一方で、吉田さんの小説は、日常空間の記述はあるのだが、話に大きな動きがあって、始まりと終わりが明確にされているようなものではない。そういう意味では物語小説ではないのだが、それぞれの人物(猫も含めて)が微妙な心理的な揺れをもっていて、それが小説の動力になっている(例えばバリカンという人物はときどき何かを書いているのだがそれをひとに見せようとしない)。

そして、猫だ。黒い猫は、この小説の中心的な登場人物で、あるいは、主人公たちのもっぱらの関心の的なのだ。この小説は猫を中軸として、それに喚起されるように、話は静かに膨らんでいく。

僕は先に、物語小説は中心的な事象や事物があるほど、締まりがでやすいといったが、それはやはり僕らの日常生活でも同じことだ。

小説というのは、単なる作者の白昼夢ではなく、見ている世界をどう切り取るかにある。SFだろうが、ロマンスだろうが、そのなかに現実がなければ、それは小説とはいえないし、長くは読まれないものだ。

トルストイを読めば分かるが、彼は人間の細かい心理を観察し的確に表現している。ドストエフスキーもそれに感心している。

「月と6月と観覧車」の猫は、片隅のありふれた日常の現実の風景こそが、実は僕らの生活の中心であることを物語っている。

では、また!

コメント

タイトルとURLをコピーしました