日本人は小さな幸せを大切にするのだといわれる。
ご飯を食べて幸せ、良い天気で幸せ、お風呂に入れて幸せ。
ビジネス書にはそれと反対のことが書かれている。
とかく、遠いところに目標を設定するように促している。
でも、私は幸せは上にはなく、足元にたくさん転がっているようなものだと思う。
幸せは身近なもの。目標のなかにはない。
日本人は、小さな幸せを大切にするとある海外から来た神父がいった。
風呂に入って幸せとか、おいしものを食べて幸せとか、今日も良い天気で幸せとか、とかく日本人にとって幸福とはごく身近なものであるのかもしれない。
川上弘美の「晴れたり曇ったり」という本のなかに「町内十番以内」というエッセイがある。
おいしいものを食べると、川上さんは、日本で一番幸せではないかと、いや市内で三番目、いや、町内で十番目くらいの幸せかなと、目まぐるしく思考が回るのだそうだ。
これもちょっとした幸福感で、先の神父にいわせると、日本人らしい幸福感といえるかもしれない。
幸福というのは、確かに遠くにもとめてもしかたのないものだ。
欲張りなひとというのは、単に欲望が大きいというだけではなく、目標設定がかなり向こうにあるのではないか。
課長ぐらいにはなれるかな、と思っている新入社員より、将来起業を目指している若者のほうが、やっぱりアグレッシブだ。
それはまあ良いとして、やっぱりときとして、足るを知る、を学んでいかないと、無益に忙しいだけの生活になってしまう。
最近のミニマリストの流行も、こういう身近な幸せにこそ価値がある、いや、身近なところにしか幸せはない、と人々が気づき始めているからではないか。
それにしても、ご飯を食べて幸せといえる感覚もこれ自然なようで、かなり難度の高いことをしているのではないかと私は思ってしまう。
私は休日、暇があるときは、本屋に行って、ビジネス書なんかを立ち読みするのだけれど、そこには、目標を立て逆算して考えろとか、目標に制限を設けるなとか、目標を段階別に考えてその都度チェックしろとか、とにかく先へ先へと進むことに忙しい。目標、目標、目標、それの連続だ。常に上を見あげるこうとをよしとしている。そして、暗に、そうして、目標に向かってひた走ることが幸せなんだ、と主張している。
それは間違っていないとは思う。旧約聖書の「コヘレトの言葉」でも、人生は空しいのだから、働けといっている。
労働は確かに、ひとの生きがいにはなる。
しかし、一方で貪欲という言葉があるとおり、過剰なものはひとを幸福にしないことは常識で考えれば分かるものだ。
労働も貪欲になりうる。身近な視点を失わせる。
ビジネス書が上を向くことを主張しても、人間というものは、下を向いていることの方が多い。
歩いているとき、たいてい下を向いているし、本を読むときも下を向く、ご飯を食べるときだって下を向くではないか。
つまり、人間の基本姿勢は下にあるのだ。
戦後のひもじいとき、子供はよく下を向いて歩いたらしい、釘が落ちていたら、拾って工場で売れるからだ、そうすると多少の食料が買える。幸福は下にあるこということだ。
足るを知る、とは仏教の言葉だけれど、これはすごい言葉だなと改めて思う。
求める先に幸福なんてないからだ。いや、幸福という言葉もないだろう、幸福という概念には求めるものがある。いまある状態で充分、それしかない。
一方で、ご飯を食べて、それを幸せと感じるならそれを否定もしないだろう。
否定にも何か求めるものがある。目標がある。
聖書にも持っているもので満足しなさい、というような記述がある。満足というのが良い。
日本人ふうにいえば、それで幸せということになるのだろう。
とかく、幸せは上にはない、足元にたくさん転がっている、見えていないだけなんだろう。
では、また!
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