自己顕示欲は必要ない? もの書きのスタンス。

エッセイ

自己顕示欲は、書くための根本的な欲求にならないないと私は思う。

誰でも、何かを表現したら、それを評価してもらいたいし、それに満足をしたい。

しかし、作家というのは、自分を表現するのではなく、自分が見た世界を表現するのが仕事だ。

そして、世界を見ればそれを描写したくなる。

自己顕示欲だけでは書き続けられない。

自己顕示欲という言葉が流行り出したのは、インターネットが登場してから、もっというと、SNSが一般に普及しだしてからだろう。

まだスマホもなかった私の高校生のころには、そんな言葉はめったに聞かなかった。

携帯電話のメールで、友達同士で連絡を取り合うことはあっても、TwitterやFacebookのように文章で、自分を表現するなんてことはなかった。そんな場がなかった。

自分を表現したいひとは、詩や小説などを書いて、どこか雑誌に投稿しなければならない。

そういうひとでも、当時は自己顕示欲が強いとはいわれなかったのではないかな。

ネットで何かを発信したいひとは自己顕示意欲が強いといわれるが、確かにそういう欲求がなかったら、ネットでもどこでも自分を前に出して活動することはないだろう。

欲望というのは、ひとを動かす原動力にもなる。

しかし、自己顕示欲だけでは、書き続ける理由にはならないとは私は思う。

ちなみにネットで調べたところ、実用日本語表現辞典には、こういう説明がある。

自己顕示欲とは、周囲の人々から注目され、そして認められたい、という欲求のこと。

実用日本語表現辞典

つまりそれ自体、虚栄心と切り離せないものとなっており、いいかえれば、他人の評価がなくなれば、もう書くことはできない。

書くとは、宿痾のようなもので、本当に書き続けるひとは、誰も読まなくても書くものだ。

そこに自己顕示欲だけでは説明のつかないものは確かにある。

私は井伏鱒二が好きで、よく読んでいたのだけれど、彼ほど自己顕示欲という言葉が嫌いな作家もいないだろうと思う。もっとも、彼の文章に自己顕示欲とかいういかにも生気のない言葉は見つかるわけもないけれど。

「急ぐひとにはおさきにどうぞだ」と彼はお弟子さんにはいっていたそうだ。

競争、競争で、他人との比較に忙しいひとを暗に戒めている。

こうひとにはおそらく自己顕示欲とか、野心とか、虚栄心という言葉は通用しないだろう。

そもそも書くとはどういうことか。

自分を表現したいという動機はことの始めにはもちろんあるだろう、いや、年月を経てもそれは止むことはない。

けれど、もっと深い動機、何か表現せざるを得ないような欲求の根本には、そのひとを存在たらしめている大きな世界観があるはずで、書き手はそこに無自覚であってはならない。

そこの意識が抜けると、彼の書く理由はそれこそ、自己顕示欲から先に行くことはできない。

世界ってなんだろうか、それはきっと孤独に突き詰めてようやくその片鱗を覗くことができるようなもので、小説家も、詩人も、画家も、その自分が掴んだ部分を最大限に表現しているに過ぎない。

世界は広いってよく旅をしたひとはいうけれど、確かに世界は、外側でも内側でも広いのだろう、おそらく内側が広ければ、外側もひろいのだ、作家はその広い世界の宣教師なのだ。

だから、自己顕示欲なんて言葉はつまらない。

自分を表現したいひとは多いけれど、作家は自分が見た世界を書きたいもの。

自分を表現したところで、誰でもみな似たり寄ったりなんだから、同じようなものばかりできてしまう。

では、また!

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