海なし県にいると海が恋しくなる。

sea landscape beach sand エッセイ
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海なし県にいると、海が恋しくなるときがある。

私は海辺育ちなので、海の景色が私のアイデンティティの一部になっている。

そのため海のない地域に住んでいると海を懐かしく思うのだ。

私のなかには私だけの海があって、それが絶えず海を求めている。

海辺育ちには、海がアイデンティティー

私は奈良県の香芝市に住んでいるのだけれど、当然だがここには海がない。

自転車でいくら走っても、山と川と田んぼと静かな住宅街しかない。

それはそれで恵まれているのだけれど、ときおりむしょうに海に行きたくなることがある。

海の匂いと海風とを体に受けたいと思う。

私は、小学五年までは奈良県の生駒市で育った。

それから引っ越して、大阪府の岬町という海沿いの町で数年間住んだ。

だから私は、半分は海育ちで、海の景色といのが私のアイデンティティのなかにしっかりと刻まれているのだ。

生駒市の山手の風物もよかったけれど、印象に深く残っているのは、海の町の方だ。

中学のとき、私は部活には参加しなかったので、学校が終わればそのまま帰宅して、あとは自由にどこかに自転車で散歩に出かけた。

山を越えて和歌山に行くこともあったし、海沿いの道を通って泉南市のアウトレットにいくとこもあった。

何気なく私はそう書いたが、これは相当の距離があり、アウトレットまで電車で遊びに来ている同級生とたまたま会ったりすると、私が自転車でそこまで来ていることに驚いていた。

私は運動部には所属していなかったが運動部なみの運動はしていた。

でもそんな激しい運動も、海の景色がなかったら続いたかどうか分からない。

海は凪いでいるとき、太陽を受けて白く光る。その景色を私は当たり前のように思っていたが、海に行くと活動的に胸が波打つこともあった。

もっともそれはそのときウォークマンで聴いていた音楽のせいかもしれないが。

ともかく、中学時代のこの「散歩」がなければ、私がいまでも海にあこがれをもっているかどうかわからない。

昔見た景色でもっとも印象的なのがこの海だ。

心のなかに海がある。

私は、今でも岬町に実家があるので、海に行こうと思ったなら、暇さえあればいつでも行くとこができる。

でも、実際にいくのは、涼しい季節になってからの年に一、二度くらいだ。

なんといっても遠いし、それに行ったからといって思っていたような感動はないのだ。

旅行はなんでもそうらしいが準備をしているときが一番楽しいのだそうだ。

私は海に行っても期待外れに似たような、妙に落ち着いた気分と、憂鬱さを感じてしまう。

感覚がすでに日常に戻ってしまっているのだ。

おそらく、中学時代も、私が海を楽しんだという記憶は、私の捏造に違いなく、海はただそこに当然あるものとして見ていたに違いない。

海はきれいだ、そして雄大。

それはその通りだけれど、感動というのはよほどの条件がそろわない限り起こらないようだ。

でも、海から離れて家に帰るころには、すでに海が恋しくなっている。

またしばらく来ることはないと思うと寂しくなる。

私にとって海の景色は青春と結びついているために、多分に感傷的なものになっている。

それは、見てそのままを楽しむよりは、何かを思い出したり、何かを想像したりするための大きな舞台装置となっているのだ。

つまりすでに私の頭のなかに海があって、実際に海を見たあとはとくに、刺激を受けてそれがうごめきだすのだ。

私にとって海に行く理由は、自分自身の海に出会うためかもしれなかった。

自分の記憶にしっかりと埋め込まれているのは間違いなく岬町の海だけれど、そこから私は自分で海を作り出し自分のものにしてしまっている。

これは私の宝だ。

私にしか行くことができない海であり、しかも欠けるところがひとつもない。

本当の故郷とは心にしか存在しないのだろう。

では、また!

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