宗教はメンタルヘルスに効果的か?

close up of hands エッセイ
Photo by Pixabay on Pexels.com

宗教はメンタルヘルスに効果的だろうか?

宗教はマインドフルネスではない。マインドフルネスは健康を維持することを目的としているが、宗教にはそうした目的はない。

時には宗教の訓練は非常に「不健康」でもある。

しかし、信仰は最後の砦となるもので、こころの支えとなるもの。それはもちろんメンタルの状態に影響する。

マインドフルネスは宗教ではない。

ちょっと前に宗教はメンタルヘルスに役に立つかというような記事をほかのプラットフォームで書いた。少し込み入った議論になるかもしれないがここでもシェアしたいと思う。

宗教はメンタルヘルスに役に立つか?もちろん答えはそう簡単ではない。世界には何千何万という宗教団体があるし、それを十把一絡げに定義するわけにもいかない。宗教が違えば、あるいは同じ宗教であっても教団が違えば、ひとの感じ方も考え方もまったく異なったものになる。

しかし、ある程度ざっくりした結論をくださないことには議論は前に進まない。

マインドフルネスが非常にメンタルの健康にいいと、もう数十年前からポピュラーになっている。マインドフルネスは、いま・ここに集中することによって、雑念をはらい、精神を安定させることを目的としている。

何かに気を散らされているとき、私たちの脳ではドーパミンが放出している。iPhoneで音楽聞いているとき、ユーチューブでエンタメを鑑賞しているとき、あるいはポルノを観ているときもドーパミンが過剰に分泌されている。

ドーパミンにより私たちの脳は快感を認識し、それに依存するようになる。

しかし、これの極端な状態が長く続くと不眠になったり、集中力が低下したり、場合によっては精神疾患におちいったいりする。ポルノであれ、音楽鑑賞であれ、共通しているのは、イマジネーションの世界にどっぷりと没頭しているということだ。

それら過激な刺激によりわれわれの脳は、現在あるところから、どこかへトリップしている。

しかし、いいかえるなら、いま・ここに集中すると、過剰なドーパミン分泌は抑えられるということだ。そこでマインドフルネスである。

マインドフルネスの瞑想を続けていくなかで、私たちは現在あるところの環境に敏感になる。かすかな鳥の声に気づけるようになったり、植物の季節の変化を細かく理解するようになる。四季の変化に感受性を育てるということはメンタルにも非常にいい。

しかし、マインドフルネスが宗教か、という問いには誰もが首を横に振るだろう。マインドフルネスは仏教思想から来ているので、宗教といえなくもない。しかし、朝の出勤前の五分間瞑想で、悟りを開こうと考えるひとはまずいないし、阿弥陀如来を観想するわけでもない。単に集中力を高めたいからそうするだけだ。

一方で、宗教における瞑想は必ずしも、メンタルヘルスにプラスになるとは限らない。なぜなら、メンタルヘルスの向上を目的にしているということはすでにそれは仏教の瞑想ではない。

例えば、禅寺では、不眠不休を含む激しい肉体的な鍛錬が必要とされる。また、さまざまな精神的な混乱によって病的に追いつめられることもある。

禅寺では精神疾患を含む障がい者は仏僧として修行ができないようになっている。というのも非常に危険だからだ。

これはキリスト教における修道院でもおなじことだ。カトリックの修道院は禅寺ほどフィジカルな鍛錬は必要とされないが、何日も独房にこもって祈りに専念することもある。そのばあい様々な精神的苦痛(過去のトラウマであったり、過剰な罪意識だったり)を経験する。精神疾患を患っているものにとってはこの訓練は非常にリスキーだ。

多くの宗教では霊性を意識するわけだが、霊性はメンタルヘルスではけしてない。ざっくり定義すると、過酷な状態にあっても(精神的な苦境も含む)いかに平静でいられるかで、霊性の完成度は問われる。

健康で豊かな日常生活を送ることに目的はおかれていないし、禅など仏教における瞑想では、「目的」はそもそも設定されていない。座禅といえばただ座るだけだ。

ところが、医学的なマインドフルネスの瞑想ではいかに健康になるかに集点がおかれている。目的がなければマインドフルネスの瞑想がないとすれば、それは仏教の瞑想ではない、少なくとも禅とは非常に異なるものだ。

宗教は最終的なこころの支え。

別の観点から宗教とメンタルヘルスを論じることもできる。ひとが宗教に入る理由はさまざまだ。あるひとはその哲学に惹かれたから、あるひとは悩みがあるから、あるひとは、話し相手がほしいから。

親が信者でありからという理由を除けばたいてい何か問題を抱えていて、その解決のために宗教団体を訪ねるというのがほとんどのケースであるはずだ。

しかし、もしそれがまともな宗教団体である場合、すぐに何か結果が得られるのはマレである。知的に納得したと思ってもすぐ色褪せる。宗教とは体験であり、経験を積み重ねることによってしか学び得ないことは多い。

だからメンタルヘルスに宗教が役立つかといえばそうではなない。宗教家はトレーナーであり、セラピストではないからだ。

しかし、長い目で見た場合、あなたにじっくりその思想と構える力があるなら、宗教ほどメンタルヘルスに役立つものもない。信仰とは心の支えとはよく言ったものた。宗教があるひとは不安に強いとは誰でも容易に想像がつくことだ。

もちろん、宗教の教義に矛盾を感じる時期というのは必ず訪れる。それもごく初期にそういう思念は襲ってくるものだから、この時期にあきらめてほかの教団に移ったり、そもそも宗教はまがいものだといって、寄り付かなくなったりする。

これも、試練ではある。試されている。しかし、この時期がメンタルには非常に負担でもある。いっそのことあきらめた方が楽では、と思う。

そして、もとの生活に戻ると実際楽でもある。

信仰とは、やはり心の支えだ。そういうとかなり俗な表現に聞こえてしまうが、実際に大きな困難にあるとき、リストラにあいそうだとか、大きな病気をしているのに頼る人がいないとか、社会から孤立してしまっているなどのとき、頼るべきは自分のこころしかない。

しかし、そのこころに頼るべき光もなく知識もなく、むしろ不安しかないなら、ひとはほんとうにもろいものだ。

信仰は最後の砦となるもので、それはこちらの思惑とか努力とかによってなにかなすべきものではなく、あるべきものを静かに受け入れさせてくれる。それが大きな癒しとなることもある。

そういう意味で、宗教とは極限の状態ではメンタルヘルスにはいい。僕はだから宗教に入りなさいとすすめているのではないが、実際統合失調症を患うみとして、キリスト教にはずいぶん救われた。

いま病気のため収入もすくなく、生活が厳しいのに、卑屈でもなくかえって自信たっぷりで安定しているのも信仰のおかげだ。

宗教とはこころの支え。かなり手垢のついた俗な表現だが、それが確かに真実だ。

では、また!

宗教の支えについて書く。

コメント

タイトルとURLをコピーしました