静かに生きるのは難しい。とまらなくなる考え事。

エッセイ

静かに生きるのは難しい。

私は、ほとんど、病気療養のような生活をしているので、外見上は非常に静かな生き方をしているが、頭のなかはそうもいかない。

際限なく考えが巡る。

ひとは時間があればものを考えるものなのだ。

その執着を手放さないことには静かな生活はない。

考えるという行為はやっかい。

この記事は、もともと「静かに生きるのは難しくない」というタイトルだった。

それも間違いではない、静かに生活しようと心がけたら、ひとりでに整えられていくこともある。

難しく考えすぎることもない、難しく考えるから難しくなるのだ。

確かにその通りだと私は思うのだけれど、それだけじゃないよね、とも思ったので、こうして文章を書き直すことにした。

庄野潤三のエッセイに「静かに生きるのも難しいものだ」というような文章があった。チャールズ・ラムの生涯の短い紹介にそう書いてあった。

それを読んで、「さすがだな、庄野さんはちゃんとものを観察している」と私は思った。

うっかり、景気のいいように、「静かに生きるなんて簡単だよ」なんて書く私はいかにも愚鈍だ。

私も私なりに静かに生きようとしているのだけれど、考えれば、それを実感できたのはほんの一瞬のことでしかない。つかんだ、と思ったら、次の瞬間には離れている。

といって私は忙しい生活をしているのではなく、ほとんど、病気療養にも近いような生活をしているので、外見上は、非常に静かな生き方だ。

毎日、同じようなことをして、同じようなタイムスケジュールで暮らしている。

楽なはずなのに、これがどういうわけかしんどいのだ。

ひとは考える生き物だと言われている。考えなければ、動物と同じことだし、考えるという能力があったからこそ、食物連鎖の頂点で安住できるようになった。文明が発達して、便利な生活ができるようになったのも、ひとが考えることに飽きなかったからだ。

しかし、この考えるというやつはやっかいで、いったん病的なほうへと歯車が狂いだすと、もう自分を傷つけることしかしなくなる。

その状態を客観的に見られればまだ良いけれど、狂った思考というのは、徐々に客観性を閉じて行く。そして、回転したコップの水のように同じところを回って自分がどこにいるのかも分からなくなる。考えに答えは見つからないし、ひどい場合何を探していたのかも分からない、ただひたすら考えている。

そしてこの考えるというやつは時間があればあるほど、よく働くのだ。

私は、ある大きな病気をしているので、会社勤めができないので、一般の多くのひとよりも、時間にゆとりのある生活をしている。先に書いたように、外見上は静かな生活はできている。

しかし、頭のなかは際限なく思考は巡って、それまで、元気に働いていたときよりはよっぽど忙しいことになっている。

ひとは、暇があればろくなことを考えない。

数年前に永平寺のドキュメンタリーを観たが、そこの修行僧はとにかく忙しい生活をしている。

ものを考えているひまはない。考える時間があるとすれば、寝る時間か、座禅を組んでいるときだが、禅僧は考えることに対する執着も手放そうとする。

じっと座りながら、昔の彼女のことなんか考えやしないだろう。

言い換えれば、考えを手放す、あるいはその執着を捨てるというのは、永平寺でのような修行が必要ということだ。

静かに生活をしようにも、そこに何かしらの努力がなければ、やはり実現はされない。

私は、この数年間、瞑想を取り入れていて、それによっていくぶん、考えることによる混乱は改善してきているし、少しは、静かな生活も整えられた。

しかし、それでも、静かに生きるのが簡単だとは思えない。

瞑想というのも、前に進んだと思ったら、後退もする。

難しい、だが、難しいと思い過ぎてもいけない。

では、また!

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