考えない練習。執着が減り、客観的になる。

エッセイ

考えない練習をすることによって、考えそのものに対する執着は減退する。

考えなければならないという強迫観念も、考えてはいけないという思い込みも減っていく。

考えそのものはなくなることはなく、ただ自分の考えていることに対する客観性が生まれる。

考えることへの執着は減る。

考えるから思い悩み、不安になるのだから、考えないほうがいい。考えない練習。

そんなことをここ数年、試してきた。

結論からいうと、数年では答えはでない。

確かに、持病の精神疾患は、この訓練によっていくらかは改善したし、ものの考え方も以前にくらべて平板で落ち着いたものになってきた、いやもっと大きなことを別の観点から眺められるようにはなった。

この変化はダイナミックなものだった。

三、四年まえの自分とは、まるで別人格の自分がいるようにさえ感じる。

しかし、はっきりとこの訓練だけによる効果でそれだけの変化が得られたのかはまだ分からない。

私は、三年前に持病の精神疾患が再発したので、薬が大幅に変わった。

私の成長は単なる薬の効用であるかもしれないし、あるいは単に年齢が増したからかもしれない。

究極のところ、精密に科学的な検査をしなければ分からないことだ。あるいはもっと修行をつまなければ分からないことだ。

それでも、自分を子細に眺めてみると、この考えない練習によって、考えること自体への執着は減退してきていることに気づく。

私は、考えても仕方のないくだらない悩み事を一日中考えているようなところがあって、それが病気の原因にもなっていたし、病気を悪化させる要因にもなっていた。

問題を解決しようとぐるぐる思考をめぐらせていないと不安で、そうすればさらに不安を呼び、悪循環に陥るのだった。

考えること自体は、何かの刺激がなければ起らない。

例えば、歩いているときに考え込んでしまうのは、ふと目に入ってきた景色の何物かが、思考を刺激するからであり、あるいは歩くときの足からの振動が思考にとっては心地が良いからだ。

日頃、こういう刺激にあまり敏感になりすぎると、今度は夜眠るときにも、考えが止まらなくなるなんてこともある。不眠症は日中の過ごし方に原因がある。

考えない練習をしても、考えること自体は止むことはない。

しかし、考えるという行為に、客観的になることはできる。私ように数年試しただけでも、この効果は大きく、考えている事柄をむやみに否定もしなくなったし、だからといってそれに乗っかることも以前よりも少なくなった。

考えて、色々計算したり、想像をめぐらしたりすることは、いってみれば現象でしかない。

朝早く、雨が上がって霧がでるのと変わりはない。ほっとけば消えて行くものであるし、かき集めようと思っても、かすみを切ることもできない。

なすがまま、なされるがままに放っておくのが考えるという行為への適切な対処法だろう。

そうやって考えることへの激しい執着というのは徐々に止んで行く。

しかし、私の少ない経験によれば、これはループしながら前に進んで行くようなもので、あるときは執着は止んでいるように感じても、またあるときは激しく執着しているときがある。

たいていみな仕事を持っているので、考えるということは、仕事をするうえで必須のことだ。

ひとによっては強くそういうことを要求されることもあるだろう。

考えることへの執着を取れ、といわれても現代人ほどそれは難しい。

しかし、考えない練習を時間の合間にでもすることで、考えに対する客観性は生まれる。

そうすることで、自分が目下考えていることが生きることのすべてではないように思えてくるし、自分が熱中している仕事自体も考えているほど重大なことでもないように思えてくる。

そしてループしながら、変化して行く。

しかしその変化はいつまでも続くように思われる。

わずか数年試しただけでは、ことの片りんを垣間見たに過ぎないだろう。

では、また!

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