「貧しさ」も瞑想になる。お金は捨てるべき? 求めるべき?

エッセイ

「貧しさ」がなければ、瞑想は発展しない。

しかし、「貧しさ」は金銭的欠乏をさすのでもない。

誰しも執着を抱え、それが悩みの原因にもなり、執着を取り除こうと必死になってそれが悩みとなる。

金への執着に対し、多くの場合私たちは無力だ。

しかし、無力もまた「貧しさ」ではないだろうか。

「わび」「さび」「無常」という貧しさ。

貧しいと聞くと、お金がなく、食うに困るような状態をまず思い浮かべてしまうが、誰だってそのような状態を好ましいと受け取ることはできない。お金はないよりもあったほうがいい、むしろ、熱心にそれを追い求めて、楽にくらしたいというのが、万人共通の理想ではないだろうか。

私はインターネットでいろいろと活動していて、最近では英語でも発信を始めたが、ネットで稼ぐもっともてっとりばやい方法は、「どうすれば金を稼げるか」という問いをもつひとに、はっきりとわかりやすい解答を示してあげることだ。そして、ネットにはそのような悩みを抱えているひとが数えきれないほどいる。みな金を稼ぎたいのだ。

一方でどうやったら、「貧乏」になれるだろうか、というような問いを発して悩んでいるひとは、ほとんど見かけない。いたとしてもよっぽどのかわりもので、だれも近づきたくないだろうし、それに「貧乏」になるというのは、それほど難しいことでもない、ビジネスをしなければ、誰だって貧乏になるし、働かねば誰だって食えなくなる。

貧乏になりたければ、お勝手にどうぞ、私たちは関与しませんよ、だいたいネットでも世間でもそんなふうに貧乏なひとには冷たくできている(あるいは、執拗に貧しいひとを攻撃するひともいるが)。

「貧乏」を求めるというのは、かなり自己卑下的な、もっというと、自己破滅的な心情がそこに働いていて、褒められたものではけっしてなし、健康的でもない、自然に反することでもある。

一方で、「貧乏」を金銭的欠乏とだけに限定してよいのか、という疑問も当然あってよいだろう。「貧乏」を「貧しさ」と置き換えると、少しニュアンスが変わってくるように、貧しい状態にも捉え方によって、非常に多様なものなのだ。

例えば、「わび」と「さび」という日本文化の根底にある無常観をそのようにポエティカルに喩えた言葉があるが、これは英語の本では、「ある種の貧しさ」というように紹介されている。つまり、日本文化の豊かな哲学の内には「貧しさ」が内包されているのだ。

秋になって行楽日和の日に、田舎道を巡っていたとする、ふと、庵のような小さなお寺が目に入る、あたりは紅葉した木々に囲まれ、風もしずか、蝉のこえももうなくなった、境内には誰もいず、半ば朽ちたようなお堂があるだけだった。古い日本の私小説なんかにそんな場面が出て来そうで、けっこうベタな光景ではあるのだけれど、こういう朽ちたような庵にも詩情を感じるのは、日本人独特の感性だ。

私たちには、「貧しさ」が遺伝子に組み込まれている。

一方で、田舎道をヘビメタなんかをイヤホンで聴きながら歩いていたらどうだろうか、おそらく、寺の寂しいお堂をみても、「汚ねえな」としか思わないのではないか、いやむしろ、音楽に忙しいから、そんな村の端っこにひっそりとあるようなお寺にはまったく気づかないかもしれない。

いいかえると、頭のなかは非常に忙しい、忙しいとは、「貧しさ」とは対極のものだ。頭のなかが観念でいっぱいで、それが様々な感情を掻き立てる、とてもお堂を見て「わび」や「さび」を感じるだけの余裕はない。貧しさは逃げて行く、そして、貧しさのほんとうの意味での豊かさに気が付かないまま、家に帰り、旅で何を見たのかまったく覚えていないということになる、なぜなら、彼は旅の最中に自分の空想以外何も見ていないからだ。

「貧しさ」は「豊かさ」につながる。それはお金とはまったく関係のないことだ。

あるお坊さんは、庭を掃き浄めていたときに、ほうきに石があたって、悟ったという。ここにお金という観念は存在しない、空のなかに、お金が介在できるはずもない、捨てるということは、お金、という観念(だいたい実態なんてないのだから)から離れることだ。庭掃除をしているときに、お金のことが頭にあれば、石がほうきにあたっても気が付ないだろう。

でもまた、それは、お金がもたらすものをすべて否定しようとするところにも、過剰さがあって、これも観念を掻き立てる原因になってしまう。あるものは、それでいいし、特に強いこだわりがなければ、それでいい、と私なんかは思ってしまうが。

お金への執着からはやっぱり離れられない。

お金はあってもいいし、なくなったらそのときに考えればいい、しかし、そんなふうに考えるのは、そもそも修行が足りない証拠であるかもしれない。

江戸時代後期に良寛という禅のお坊さんで、詩人がいたが、彼は托鉢でのみ生活をし、いつも貧乏だった。

私は、先に貧しさにもいろいろとあって、お金の欠乏だけがそれにあたるものではない、と書いたけれど、良寛さんの激しい困窮を考えると、「貧しさはお金じゃないんだ、心の問題なんだ」というような解釈は、いかにも、お金に執着するひとの都合のいい屁理屈のように思われてくる。

お金というものへの執着をなくそうと考えるなら、一度はそれと本気で格闘してみないことには、お金というものの実態がいつまでもわからない。

ドストエフスキーは、お金はひとの精神にも影響するので、厄介だ、というようなことをいっていた。金があれば、高慢になるし、なければ卑屈になる。そういうことから、まったく自由になろうとして、僧院に籠るという方法もあるだろう。

自分がどれだけ、お金に執着しているか、ということを試す簡単な方法がある。募金や献金をしてみることだ。募金や献金はたいがい料金の設定はなされていない、500円でもいいし、500万円でもいい。

例えば、キリスト教の教会では、牧師や神父の給料、建物の維持費ないどは全部、献金から賄われている。聖書には金持ちの青年がイエスに、全財産を貧しいひとに分け与え、そのうえで私についてきなさい、といわれるような言葉がある。もし、貯金が三百万あったとして、その半分でも献金や募金に捧げられるだろうか。ほとんどみなできえないはずだ。

ここにおおきな執着があるが、これも一度や二度そのことで悩んでみないことには、自分が金に激しい執着を持っていることには気がつかない。

誰も、自分からすべての執着を取り除くことはできないわけだが、これもより大きな視点から見ると、貧しさとなる。

カルメル会のある司祭は、執着を取り除こうと、自殺的な修行に励むひとを非難している。「すべての執着を自分の力で取り除こうとすることは不可能である」と本のなかで、ごく当たり前のように語っている。

執着の前では、なんぴとも無力だ。

そして、この無力こそ貧しさとなる。

大きな病気をしたひとなら、誰でも分かると思うが、自分の力ではなんにもできなくなる、働くことも、家事も、買い物もできない、ちょっとした身の回りのことも介助が必要になる。無力だ。

しかしこの貧しさを肯定するか否定するかで、その後の豊かさは変わって来る。

詩人のリルケは、自分の孤独、貧しさ(金銭的にも貧乏だった)を瞑想と捉えていた。

将来の不安に悩む若い詩人に彼は、詩人にとって貧乏などないと手紙で諭している。

瞑想は貧しさをと友とする。貧しさは詩に変わると、そのひと自身になる。

では、また!

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