エッセイ

日記ブログという今後の展望。

日記ブログという発想が最近にさるまで思いつかなかった。ずっとエッセイを書いて来たのだが、それをnoteでも始めたので、このブログとの差別化が必要になった。日記はいい。型がない、自由だ。それだけに書き手の人間性が如実にでる。このブログでそれを試したい。
エッセイ

戦略は遠くに、計画は近くに。

戦略は遠くに、計画は近くに、というのは当たり前のことだ。計画というのは現状分析も含まれる、戦略はそれを踏まえて展望を描くことだ。けれど、現状分析に熱中すると、展望を忘れてしまうことがしばしば。しんどいと思ったら、足元ばかりを見ている場合が多い。目を上げること。
エッセイ

やりたいことをやる場所も作っていかなければないないよね。

戦略を立てて、一応の方向性を決めてしまうと、好きなこと、やりたいことが制限されてしまう。しかし、アーティストならば、自由に自分の幅を広げられるような場所も必要で、私にとってそれはこのブログなのだ。誰かに、観られるとか、評価されるというのはここでは重要ではない。
エッセイ

静かな生活に必須の散歩。散歩のリズムと生活のリズム。

静かな生活にも努力が必要で、一番てっとり早いのが、散歩をすることだ。生活にもリズムがあり、それは普段の色々な動作のなかで、整えられて行く。散歩にももちろん、リズムはある。散歩は、ゆっくりとした動作が基本だ。「静かな生活」もリズムも身体的なこと。散歩すると影響は大きい。
小説

カラスの笑う島 [短い小説]

妻の提案で、島暮らしを始めた夫婦。けれど、来てまだ、一週間もしないうちに妻は、東京に帰りたいという。彼女のホームシックもひどいようだったので、「私」は島での生活を切り上げようと考えるようになる。その日、用事で、表に出ると、会うひとが皆、笑うのだった。カラスの声で。
エッセイ

作家が出会う不思議なこと。「見る」ことから不可思議さは始まる。

作家のエッセイを読むと、不思議なことがよく書かれてある。先日、川上弘美さんのエッセイを読むと、居酒屋のカウンターで蛙が放し飼いにされているという場面があった。なかなかそういう場面には巡り合えない、いや、その場にいても覚えていない。作家とはやはり「見る」ひとなのだ。
エッセイ

無職の友達。無職になると、ひととの関りが減って来る。友達の捉え方も変わる。

無職でも友達ができることはある。当然だけれど、無職も長く続けば、ひとと会うのが億劫になるし、ひとと会う機会も減る。そして、多くいた友達もごっそりと去って行く。それはそれでいい。友達の捉え方も、その中で変わっていく。そして、無職には無職なりの友達ができる。
エッセイ

オタクは、個人主義者。他人の評価よりも自分の世界観が大事。

オタクほど、個人主義的な人間もいないと思う。もちろんひとにもよるだろうけれど、他人にかっこわるだとか、意味不明だとかと揶揄されようが、自分の世界観を優先させるのが、オタクだ。他人の評価など二の次で良い。独立独歩で生きるにはオタクになるのが手っ取り早い。
エッセイ

青春にも段階がある。若い青春、中年の青春。三十を越えると楽になる。

青春にも段階というものはある。私はもう三十五歳でもう中年のおっちゃんだが、青春が終わったと実感したことはない。青春にも若いひとが感じるものと、三十を越えた人間が感じるものとでは、当然だが質に違いがある。分別がつく点、三十代の青春は楽だ。ただ一概にいえない。
エッセイ

仕事の前の儀式。仕事を大切にするひとのお作法。

仕事の前に儀式を持っているひとがいる。おそらく仕事を大切に考えているひとほど、儀式にこだわるのだろう。儀式というのは、精神を整えるための作業だ。ということはそういうひとは、仕事も精神的なものと捉えているのだろう。お作法も、凝ったらけっこう気持ちいい。