エッセイ

国家はメディテーションができるだろうか。

国としてメディテーション。いかに奇妙な言葉だが、国として歴史をどう捉えるかというと、まったくおかしくはない。一種のメディテーションだ。日本では、戦争に対しての総括が戦後うまくいっていない。しかし、それは日本だけではない。国としてのメディテーションも難しいようだ。
エッセイ

読書というメディテーション。遠回りをしてゆっくり読む方法。

読書でもメディテーションはできる。作家、詩人の書いたものでそれがメディテーションになっていないものはない。読書論というと作家の数だけ読書論があるものだが、共通してみな「便利なメソッド」を選ばなかった。むしろ、遠回りしてゆっくり読むことを好んでいる。
エッセイ

思考に頼らなくなると、静けさがくる。

思考に頼っていると、どうしてもあたまが忙しくなる。それでは、思考をやめればいいのか。静かな生活に思考自体は重要ではなく、あってもなくてもいい。というより、あってもなくてもいいと考える方が重要で、いかに偏らないかがキーとなる。それを中庸といったりする。
エッセイ

ロジカルシンキングはひとを幸せにするか?

本屋に行けば、必ずロジカルシンキングの本が棚のいいところに並んでいる。それくらい人気だ。ロジカルというといい響きがある。ものごとをドライにすいすいと薦めて行く。そこに人間の感情や価値判断は入りづらい。それだけに、ロジカルな考えは「幸福」とは相反することが多い。
エッセイ

思考はしているのではなくて、させられている。だから、やめられない。

思考というのは、やめようと思ってもなかなかやめられないものだ。それは、思考が私たちがそう思っているほど、こちらが能動的に行っているものではなく、受動的なものだからだ。哲学者トマス・アクィナスは、愛は、受動的だといった。思考がやめられない原因は、思考への「愛」が受動的だからだ。
エッセイ

価値判断によってすべての困難は生まれる。アダムとイブの例。

アダムとイブというと、旧約聖書に登場する人物で、神に禁じられた「知識の実」を食べたことエピソードでも有名だ。「知識の実」を食べたことによって彼らの目は開けて、価値判断が生まれるようになる。価値判断というと善いことのイメージもあるが、同時に困難の原因でもある。
エッセイ

思考を使ってメディテイション。論理的であることと、そうでないこと。

思考を使ってメディテイションというと奇妙に聞こえるかもしれない。昨今のマインフルネスのブームで思考そのものに忌避観念をもつひともいるようだ。中世にトマス・アクィナスという哲学者がいた。彼は回りくどい言葉づかいと論理とで有名だが、思考も彼にとってはメディテイションだった。
エッセイ

旅から見る、日本人の精神性。

旅の様子も時代が変われば様子が変わってくる。日本人の旅も、当然ながら江戸時代と現代とではまったく違う。江戸時代は巡礼、そして温泉だった。そして、一部では歌や俳句のための旅行もあった。現代においては、巡礼は旅の主目的ではないが、神社仏閣は観光地として依然根強い人気がある。
エッセイ

言葉への執着について考えてみる。

執着にもいろいろあるが、言葉にも執着というものはあるだろうか。アルコールやたばこのように言葉に対して、激しく渇望するということはあるだろうか。知識欲という言葉があるように、少なくともすれは欲望を掻き立てることはあるようだ。言葉とどう向き合うべきか。
エッセイ

将来のことで不安になったときの対処法。

将来のことを考えると、不安になるひとは多い。お金が相当あるひとでも、身の回りのリスクを考えるとやはり相当不安になるようだ。不安の原因は考えることにある。だから、考えなければいいだけの話だが、これが難しい。気持ちに余白をつくる。そこから始める。