スマホが原因で考えることが増えた。

エッセイ

スマホが原因で考える時間が増えてしまった。

それによってなにか生み出せるのならいいが、たいてい不安になって、インターネットのなかを右往左往しているだけだ。

スマホは、無限の情報にアクセスできる。

けれど、私たちの頭の容積は限られているので、一度に大量の情報を処理できない。

スマホは不安の原因。

「考えすぎ」という言葉を辞書で引くと「憂慮・心配などを必要以上に行っている様子」と出て来る。はっきりとそんなもんは「必要」じゃねえんだ、いいきっている。

「憂慮・心配」というものに特定しているのもいい。哲学者は抽象的、観念的なことを考えに考えて、理論的に練り上げていくのが仕事だけれど、先の辞書の定義によれば、これも「考えすぎ」には当たらなくなる。「憂慮・心配」は哲学じゃない、たぶん。

私は、子供のころから考えるのが好きで、そのくせ哲学者ではない証拠に、考える内容のほとんどが「憂慮・心配」で占められていた。例えば、進学のこと、将来の金銭的なこと。考えるほど、不安になってくる。

だから、考えなければよいではないか、と思われるけれど、そういうひとはだいたいもとから考えないひとだ。お互いに話は通じ合わない。しかし、やはり考えなければ不安もないはずで、考えることに過剰に執着していることも問題なのだ。座禅でも組んで、少なくとも「考えすぎる」ということは見直していかなければならない。

私も現代人のはしくれなので、スマートフォンを持って、とくにYouTubeを好んで観たり聞いたりしているのだが、聞くところのよるとこのようなSNSも脳には負担になるらしい。

もうだいぶ以前になるが、テレビが一般に普及しだして、その影響を危惧した評論家が「一億総白痴化」と揶揄した。テレビ番組は内容が薄く、それをたんに受動的に見るというだけだと、知識も教養も発達しないということだろう。

実際にテレビによって視聴者が「白痴化」したのかどうか私は分からないが、どうやらスマートフォンではそれはいいえるようだ。

ある本によると、スマートフォンが普及しだして、人類のIQが下がったらしい。もちろん、これがスマホだけの影響かどうかは慎重にみなければならないが、科学者はなにかしら関係あるものと考えている。

スマホなんてほんの板切れ一枚に過ぎないが、それによって無限の情報に我々はアクセスすることができる。しかし、この情報量も問題らしい。人間の頭の容積は決まっているので、過剰に情報を詰め込もうとすると脳に負担がくるのだ。

それにスマホで触れられる情報にはたしてどれほどの価値があるのかどうかも考えないといけない。チープイズチープで、安い情報もけっきょく内容も安いのだ。そんなもんを大量に頭に詰め込んでも価値あるものは生み出せない。

「考えすぎ」に話を戻すと、「憂慮・心配」が増えた理由にやはりスマホは関係しないだろうか。これがテレビだとニュースを観て不安なっても番組は三十分かそこらで終わってしまうし、その課題について調べようにも次の日のニュースまで待たなければならない。

けれど、スマホは、次から次へと不安な情報が向こうのほうからやって来る。

先日も、ある外国の紛争についてYouTubeで観ていたら、やみつきになって、その情報ばかり集め、けっきょく夜遅くまで眠れなかった。次の日も不安だからそれについて考える。悪循環だ。

不安になったらひとはものを考えてしまうものだけれど、スマホのビジネスはどうもこの人間の不安心理を利用して利益も上げているところも多いようだ。

ある仏教学者はインターネットを「煩悩の塊」といったが、これもはっきり冗談ではすまされない。

では、また!

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