海外旅行に行きたいと思わなくなった。

エッセイ

海外旅行にあまり行きたいとは思わなくなった。

仕事などで機会があって、こちらの体も元気ならせっかくだからと思うかもしれないが、自分から進んで行くことはこの先おそらくないだろう。

三十歳くらいから私の感性は変わってしまった。

欲望が減退してちょっとした諦念がある。

三十を越えて感受性が変わると、外国への興味関心も変わる。

歳とともに興味関心、好みは変わっていくものだけれど、私は三十を過ぎたあたりから、海外へのあこがれが急激にしぼんでいった。

どこかの国に幻滅をしたのでもなかったし、政治的に保守的になって、外を見たくなくなったのでもない。海外へのあこがれは確かにしぼんでしまったが、まったくなくなったわけではなく、テレビでイタリアの自然や中国の古い街並みを見ると、機会があればいつか行ってみたいとは思う。

けれど、十代から二十代前半にあったような、欧米を理想化して考えることはもうしばらくない。

いまでも、欧米は先進国だからと、それにくらべ日本はもう先進国ではなくなったとか、もうこれからは衰退するしかないとか、とよく聞くので、そんな情報が入るたび、かつてのクセで欧米人を上に見上げるような思いもわいてくる。

けれど、正直なところそんなことはどうでもいい。日本の衰退がどうでもいいというのではないが、日本がどうとか、海外ではどうか、とかと比べて頭を悩ますのがどうでもいいと思うようになったのだ。

なるようになる、という楽観的な気分が最近になって実感できるようになっている。

昔の仏教詩人に、死ぬときは死んだらいいというような詩がある。正確ないいまわしは忘れてしまったが、だいたいそのような意味だった。

三十も超えると、自分の領分というものが見えてくるし、特に私のような病人からすると、できることは限られている、できないことを悩むよりは、ぼーっとして瞑想にでもひたりたいものだ、そして、死ぬときには死ぬ、そう思いたい。

いつものクセで話が横へ大きくそれてしまったが、先にいったように、いろいろと比較することがどうでもよくなってから、どうしてか、海外旅行へ行きたいと思わなくなった。

海外への関心はまだある。でも行きたいとは思えない。もっというとしんどい。

精神というものに筋というものがあるとすれば、その節々に鉛がぶらさがっているようで、非常に気持ちが重たいのだ。元気がない。

この記事を書いているのは、二月だからひょっとしたら季節性の鬱が出ているのかもしれない。

こんなときは、特に外国のことは考えたくもないものだ。外国文学を読むのも、外国映画を観るのも億劫だ。

これは短期間でおそらく終わることだろうが、しかし、冬が過ぎて春、夏となっても私は外国に行きたいとは思わないに違いない。

さっきも書いたように三十を越えたあたりから、私の感受性は変わってしまった。外国と日本をくらべてどっちが上か下かというような発想ができづらくなっている。

これは私がリベラルになったからという意味ではなくて、単に私の感覚が閉じてしまって、かなり内向きなっているのだ。

精神障害をもっているので、内向きであるのは昔からだったが、その傾向が最近とくに強くなってきている。

枯草だけの畑や田んぼを見ると、からからと胸のうちで風がふくようで、このまま俺も朽ちても文句ないな、むしろそれがいい、と感慨にふける。

私は三十五だが、はやく七十くらいにならないかなと思うときがある。そうなると、人生に対してもっと諦めがつきてくるだろう。

諦めというと、ネガティブなイメージを持つひとも多いが、文学や哲学ではそうではない。むしろ、ある境地として、理想的に見られている。

それは楽なのだ。軽いのだ。

海外旅行に行きたくなくなって、私も軽くなった。このまま色んな欲望が枯れると、さらに楽になるはず。

では、また!

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