国家はメディテーションができるだろうか。

people on the street エッセイ
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国としてメディテーション。いかに奇妙な言葉だが、国として歴史をどう捉えるかというと、まったくおかしくはない。

一種のメディテーションだ。

日本では、戦争に対しての総括が戦後うまくいっていない。しかし、それは日本だけではない。

国としてのメディテーションは難しいようだ。

メディテーションをするには「国」という概念はでかすぎる。

メディテーションは個人でやるものである。あるいは、寺院などで、あるまとまった集団でやるものである。まず、そうした考えで間違ってはいなと思う。

しかし、ここでちょっと飛躍した質問を投げかけてみたいと思うのだ。

メディテーションは、国家にもできうるだろうか。

考えればおかしな話かもしれない。国家とは機能のことで、生き物ではない。

では、少し言い方をかえて、国民全体でメディテーションができるだろうか。

国にもいろいろとあるが、例えば日本という国で考えると、一億人以上がこの島国に住んでいて、こうした大きな人数をひとつのグループとして何か定義する場合、人種とか、何々国民というかなり大きなカテゴリーを持ってこなければまとまらなくなる。

アメリカにおいても三億人以上の国民がいるわけだけれど、この場合もその数字で何かカテゴリーをつくるとすると、もう「アメリカ人」というものしか当てはまらなくなる。

つまり、大きな数字で分類してしまうと、かなり多様性が見えなくなってしまうのだ。

だから、国民というのは、かなりおおざっぱな概念、一方でメディテーションは個人で行うもの、あるいは小さなまとまったグループで行うもので、国としてメディテーションができるか、というのは日本語としてもおかしなふうになってくる。

しかし、取り方によってはできうるかもしれない。いや、むしろ、積極的に考えたほうがいいと思っている。

戦争の総括というメディテーション。

先日、「戦後80年はありうるか」という本を読んだ(集英社新書)。

いわいる日本人論で、戦後日本人が、どのようにして変化していったか、というのを歴史学、経済学、社会学などの視点から物語る。

そのなかで、内田樹さんが面白いことをいっておられた。

日本では、歴史の総括というものがなく、戦後においても日本の戦争責任というものに対して曖昧ににごすだけで、国民のうちにその定義がまとまった形でなされていない、というものだった。

過ちにたいして、罪責感をもつ、そしてそれに対して考えを深めていく、というのもメディテーションだ。

キリスト教の文脈ではこれの傾向が非常に強く出るが、日本においても浄土真宗には妙好人という信仰の深みに達したひとたちがいて、彼らは自分の罪深さというのを非常に意識する。

日本人は、キリスト教における「罪」の概念がまったくないとかいわれるが、人間の感性とはそれほど大きく違わないもので、一概にはいえない。

さて、国の過ちを自分のものとして引き受けるというのがメディテーションのひとつだとすると、まず思い浮かぶのは、ドイツだが、ドイツという国もひとつではないと、内田さんはいう。

東ドイツでは、自分たちは戦勝国だという意識が強くあった、ナチスに抵抗して勝ったというディスコースがあったというのだ。

ほかにも、フランスは戦勝国とみなされているが、ヴィシー政権においてはフランス人もユダヤの迫害を行っていた、つまり、戦勝国だからといって、まったく罪を犯さなかったというわけではない。

そして、ドイツにおいてもフランスにおいても戦争にたいして総括というものはうまくいっているわけではないとい内田さんはいう。

つまり、国をあげてのメディテーションはそれほど難しいのだ。

一方、ナショナリズムは簡単に発展する。見たくないところを覆い隠すので、非常に楽なのだ。だが、それはメディテーションではなく、精神のなかに妄想を植え込むことだ。いまは、どこのくにでもこの症状がじわじわと深刻さをましている。

では、また!

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