お金との上手な付き合い方。

dollar-currency-money-us-dollar-47344.jpeg エッセイ
Photo by Pixabay on Pexels.com

金はないよりはあるにこしたことはない。しかし、それは本当だろうか。

人間の苦しみは執着に比例するようだ。

金はその性質から、これ以上不安定な存在もない。しかし、ひとはそこに安定を求めて執着する。

金に頼って楽を得るより、金がなくとも満足であるほうが、幸福であるはずだが、そんなことは可能なのか?

金は人格に影響する。

アッシジのフランチェスコは、貨幣経済を悪とみなして、貨幣によらない共同体を築いた。

お金は必ずひとの思想や精神に影響を及ぼして、所有欲求を強くする。清貧に生きるフランチェスコは、よくそのことを理解していたのだろう。

小説家のドストエフスキーは、賭博依存症で、彼はフランチェスコとはまた反対の状況から、お金の怖さを見抜いていた。お金は人を堕落させもするが、高貴にもする、それが怖い。

ドストエフスキーはまさに、お金の本質を言い当てている。例えば、お金持ちはたいてい体面を気にする。成金だろうが、育ちがよかろうが、仮に自分の地位(それがかりに幻想であっても)に見合わない対応をされた場合、不快感が隠せない。これはもちろん、金持ちでなくても当然起こることだ。ケンカが強いひとは、意気地なしと言われると腹が立ち、頭がよいと思っているひとは、馬鹿者扱いされることに我慢がならない。

金を持つということは、無意識のうちに体面を金で買っているということだが、無意識であるがゆえに自覚は難しい。

クリスチャンのなかにも聖人君子のような顔をする金持ちは当然いるだろうが、例えば、彼らが貧しいひとと対等に同じテーブルで食事を取れるかといえばそれは簡単ではない。「話が合わないから」とかと理由をつけて、避けるかもしれない。

実際、貧乏にもさまざまな理由があって、なかには、人格に非常な問題があってそういう状態に置かれているひともいる。そういうひとたちと、仮に友達にならなくても、ひととき同じ空間にいるだけでもかなりの労力が必要となる。

つまり、貧しいとはけして綺麗事で片付くことではなく、あらゆる世の中の矛盾ややるせなさを抱え込んでいるのだ。そして、ドストエフスキーがいうように彼らの状況を複雑にしているのもやはり金である。

貧乏なひとは、金がない、というだろう。つまり、そのひとにとって金は状況の一部であるだけでなく、アイデンティティの一部となっている。しかも無意識に。また金持ちも反対の意味でまた、金がアイデンティティとなっている。

おそらく、金の性質の原理原則に従って、そしてまた、金から完全に自由になるには、貨幣経済の外に行かねばならない。例えばフランチェスコのように金を使わない共同体を築くとか、森の狩猟民族の仲間になり、季節ごとの実りのみを糧にして生きるとか。

当然だが、貨幣経済のなかで育ち、頭がそういうロジックに出来上がっている現代人にとり、それはほぼ不可能だろう。金から自由になることはできない。金は単に人間の思考に影響を及ぼすだけでなく、アイデンティティであり、生活そのものとなっている。

では、もう開き直って金を追求したらいいんじゃないか?しかし、その考えこそが、金に対する執着を強める結果になる。

メタ視点が重要。

中道というといかにも問題に対する中途半端な解答に思えるだろう。差し迫ったときに、バランスを取って真ん中を行くやり方はいかにも的外れで生ぬるく感じられる。しかし、常に差し迫った感じを与えるのはマネタリーゼーションの人間に与えるネガティブな側面でもある。誰よりも早く、多く回収したものが金持ちになれる。

金持ちになりたいとは誰もが思うし、それが精神の負担になっているとわかっていても追い求める。

メタ視点とよくビジネスでも言われ始めているが、人間には、実際フィジカルに直面している状況を俯瞰して眺める能力がある。優れたサッカー選手は、ボールにタッチしているときでさえも、常にフィールド全体を把握している。

同じように、貨幣がなくては回らない経済においても人間は、貨幣経済の外に思考を回すこともできるはずだ。なぜなら、人間の歴史の99%は、貨幣を持たなかったので、我々の無意識にはその時代の感覚やデータが刻み込まれているからだ。

もし、あなたが、森林浴に出掛け、林業従事者でもないのに、木々の一本一本の値段の計算をしていたら、おそらく、お金があなたの思考に及ぼす影響はかなり重大なものだ。しかし、森は森である。そこで普段私たちは、経済以外のものを眺める。

ここに貨幣経済からの思考の自由がある。

もし、世の中から貨幣経済の概念が消えたら、と考えるのは面白い。おそらくそうなると物に対する見方が大変革するはず。

金から自由になる方法。

金から自由になる方法としては、三つあるように思われる。

ひとつは、金の性質を知ることだ。先にも言ったように、金はアイデンティティに影響する。金があれば偉く、なければみじめ。それは、村社会的な上下関係に便利のいいツールとして金が用いられているともいえる。

いいかえるなら、金の呪縛から自由になれたなら、この上下関係も俯瞰して見られると言うことだ。

宗教では富への執着を悲観的に見ることが多いが、それはこの上下関係への批判でもある。ヒエラルキーに幸福も、真の自由もない。金からの自由は原理的に不可能でもようはメタ視点で捉えられるかが重要となる。目先の欲望は視野を狭くし、自分の小さなテリトリーのなかで自分を量る。

二番目。お金に対してバランスをとることだ。貨幣経済の中で金を使わずに生活することは不可能だ。どこか山のなかで暮らしたとて、その山も誰かの所有であり、コストがかかっている。あるいは、そういう概念を無視して原始時代のように暮らすということも可能かもしれない。しかし、それができるひとは、まずこんな文章も書かないし、読まないし、常人の発想を超えていて僕のペンには収まらないものだ。

しかし、ひとついえるのは、金をすべて否定するのも、富への執着と同じで、金への執着の裏返しとも取れる。嫌いなアイツが頭からいつまでも離れないのと同じで、彼は憎むべき金が意識的にも無意識であっても彼の精神に住み着いている。

貨幣経済の中で金から自由になる方法はひとつしかない。適度に使うことだ。適度といってもひとによって違う。あるひとは、収入が二十万しかないのに、十万円を自分の趣味に投じるかもしれない。あるひとは、三千円しか娯楽に使わずにほかは貯金に回すかもしれない。それで何の不安も不満もなければその人にとりそれが適度といえる。

しかし、執着というのは目に見えないもので、なかなか気づかないものだ。自分ではニュートラルと思っていてもはたからみるとまったくそうでない場合もしばしばある。

なので僕は募金なり献金なりを定期的にしてみるのが良いと思う。街角で募金活動をしているひとがいたとする。募金だから金額は決められていない。500円でもいいし、五万円でも良い。しかし、あなたの収入が月に50万円を超えているのに、500円の募金を渋るのであるなら、それはあなたの金への大変な執着を表していることになる。一方で月に15万の収入であるのに、教会やお寺に毎月5000円から一万円の献金をするひとは金に対してかなりニュートラルな考えをもっていると考えて良いだろう。

そのひとの金に対する姿勢が表れるのは、見返りを求めない寄付である。これは交際相手や後輩に「おごる」のとは違い痛みの伴うもの。

しかし、その先にあるもっと大きな「見返り」(といって何の保証もないが)を考えるとあながち悪い投資とも思えない。

三つ目は、これは重要なことだが、お金以外のことを考えることだ。さっき、森は森として見るべき、というようなことを言ったが、世の中には経済では測れないものはたくさんある。

貨幣経済のなかにもある。さっきいった見返りのない寄付がその一例。

僕は、意識的に金から離れる空間を作るために、瞑想をしたら良いと思っている。メディテーションは、自己成長のためにするものと考えるひともいるが、むしろ、自分を無くすためのものだ。

金儲けのためには、集中力が必要、そのために瞑想する。しかし、この考えは、オリンピックに出るために、そこの競技にない剣道に励んでるようなものだ。向かっている方向がまるで違う。

瞑想している間、何を考えているだろうか。あらゆる不毛な考えが浮かんでくるに違いない。将来への不安や計画、うっとうしいあいつの顔、あるいはスマホをチェックしたいという衝動。もちろん、そういう考えや思いに対して、あなたは、もっとニュートラルになるべく努力するだろう。しかし、ニュートラルとはなんだろうか?ニュートラルになろうとするのはまさに自分である。

もし、瞑想でこの意識が薄まるなら、「バランスを取る」とか「これはよくない」として対処することもなくなってくるだろう。なぜなら、自分がないとは、恣意的な判断から自由だから。

しかし、これは期待して懸命に励んだところで、かえって自己を強化するばかりだ。期待がなければそもそも瞑想なんてしないが、期待があったところで何か得られるわけではない。

ここに金への向き合い方のヒントがあると思う。金を否定しても、金への執着が減るわけではない。それは、身体性を否定して、架空の神秘を追い求めたグノーシス主義のようでもある。

瞑想は、空になることだという。しかし、言葉でそう表現してしまうと、本質は逃げる。ただそうとある、としかいい表せないだろう。もちろんそこにはいかなるコンセプトもない、あるいは意識されない。

金とは物質でなくコンセプトだ。空において、金はどう意識されるか、などと質問するものはどこにもいないだろう。少なくとも、空が金で買えると思うひとはいないはずだ。

では、また!

コメント

タイトルとURLをコピーしました