お金への執着を捨てるのは、ほとんど不可能という話。

crop man counting dollar banknotes エッセイ
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執着にも色々とあるが、お金への執着というものは、もっとも捨てるのが困難。

金とは、概念である。それ自体、物質ではないのに、それで様々な物やサービスが買える。

金への執着から自由になろうと思うなら、良寛やフランチェスコのように生きねばならない。

でもそれって可能?

坂爪圭吾は現代の良寛?

ブログをはじめたての頃、参考になりそうな例を探して、グーグルのなかを回遊していたことがある。僕は、アフィリエイトブログはやるつもりはなかったので、もっぱら日記ブログを見ていた。坂爪圭吾さんの「いばや通信」とphaさんの「phaの日記」に出会ったのはそのころだ。

しばらく、坂爪さんのブログをチェックしていなかったのだが、久しぶりに覗くと、彼は長野県におられた。

彼は、働くことをせず、発信活動を通じて得た「お布施」によって生活をされていたが、いまも(2023年7月7日現在)そのスタイルを貫かれているのかどうかは、ブログからははっきりと読み取れなかった。

ブログの読者からもらう「お布施」で暮らすといっても、悠々自適にのんびりと生活ができるというわけではけしてないようで、僕が頻繁に彼のブログを訪ねていた二年ほど前には、彼は相当に貧窮していて、一日に一食か二食それも味噌汁が一杯で満足しなければならない日が続いていた。とても不安定で、いつ健康に問題が発生してもおかしくはない。

しかし、色々とハプニングがありながらも、彼はその生活をもう十年近く続けている。並大抵な事業ではないし、常人にはまず真似できない。

まず、そのような生活をするにも、一般の僕らがまず足踏みしてしまう原因は、先々への心配である。「もしこの挑戦が失敗したら」とか「お布施っていっても定期的にはいる保証ないよな」とかと考える。

坂爪さんおブログに良寛さへの言及があった。彼は良寛さんの生き方にあこがれがあって、彼の詩も勉強しているというのだった。良寛とは江戸時代末期の禅僧で、生活のほとんどを近隣の住民の布施や有力者の支援でまかない、もっぱら座禅と詩の創作に生きたひとだ。もとは、大きな寺の修行僧だった、しかし、寺が方針を変え、居場所がなくなってしまったので、放浪の旅にでる。

お金は人格にも影響する。

ちょっとスピリチャルな方向に素質があるひとや、ミニマリズムに挑戦したことのあるひとなら、おそらく、一度や二度、「お金に頼らない」生活にあこがれをもつことはあったことだろう。清貧という言葉もあるように、貧しさはそれ自体が精神的な境地のようにも思われてくる。

しかし、いかにお金の執着から離れる生き方が美しく見えても、多くのひとには真似はできない。お金は所有すればするほど、生活が安定するような錯覚を持つ。お金さえあれば、とりあえずはそれなりの暮らしの運営ができ、財産が多いほど、物質的な面での安定や安全は増える。

しかし、「お金」とは物質ではない。概念である。一万円札も国がその価値を保証しなければ、ただの紙切れだ。「国が保証する」ことが概念であり、「国」自体も物質ではなく、概念である。

そして、物質でないからこそ、執着の度も強くなっていく。

中世のイタリアのアッシジというところにフラチェスコという僧がいた。彼は良寛のように清貧に生きたひとだが、彼は「お金」が持つ魔力に鋭く気づき、貨幣経済の批判もした。

ドストエフスキーがいうように、金はひとの人格にも影響を与えるもの、単にそれが多くあったら生活が便利になるという単純なものではない。

貨幣経済が高度に発達した現代は、それを見過ごしがちだけれど、ときに所有する金がどれほどメンタルに影響するかを考える必要がある。

すでに現代人はみな金の奴隷だ。少なくともそれを自覚している必要はある。

では、また!

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