マインドフルネスを外にあるものと考えると、とたん、苦しい作業に追い込まれる。
マインドフルネスの指導者であるアンディ・プディコム氏は言っている、「青空はすでにある」。
つまり、マインドフルネスはすでに内にあるのだ。
では、何もしなくていいのか?
それについて考えた。
「獲得」するのでもなく、「待つ」のでもなく、「すでにある」と考える。
『頭を「からっぽ」にするレッスン』の著者であり、マインドフルネスの指導者である、アンディ・プディコム氏は、この本のなかでこう述べている。「青空とはすなわち「からっぽ」の状態であり、それはいつでもそこに、というよりここに、あるのです。」
彼はもと仏教僧でチベットの寺で修行を積んでいた。寺で生活を始めたてのころ、彼は理想的な精神状態とは、修行を積むことで、外からやってくるものだと考えていた。そのため、そのような状態を作り出そうと、必死に雑念を振り払おうとし、余計な考えを頭から締め出そうとした。
そんなときに、導師のアドヴァイスが彼に気づきを与えることになる。導師は「空はいつでも青いのだ」といった。つまり、雲っていようが、大嵐であろうが、雲の上はいつでも青い。雑念を振り払おうと、必死になることは、大嵐のなかでいかに濡れないで家に帰るかと問うようなもの。時間が経てば天気も変わるし、天気が変われば景色も変わる。
しかし、たいてい、待つということは困難が伴うもので、焦ると余計に、じっとしていられなくなる。でも、導師はいっている。「空はいつでも青いのだ」。
マインドフルネスを待つことを前提としてしまうと、これはまた、雑念を振り払おうとするのと同じ事態に陥る。待つではなく、そして、何かを獲得するのでもなく、すでに持っているという発想。大空をすでに僕らは持っている。
もちろん、これはすでに持っているのだから、何もしなくていい、ということではなく、それに気が付くだけの注意深さというのも日々養っていかなくてはならない。
すでにあるのだから、何もしなくていいのか?
すでにあるのだから、何もしなくていいのか、それとも日々、刻苦勉励に励むべきか、という議論は、一見幼稚なように見えて、案外深刻なものだ。
中世から今日にいたるまで、カトリックとプロテスタントの間の論争のひとつが、信仰と行いがどう関りがあり、どういうバランス関係にあるのかということだ。
中世の宗教改革のとき、ルターが説いたのは信仰義認という、信仰こそが必要であり、行いによって救われるのではないということ、これは主に新約聖書の『ローマ人への手紙』から着想をえている。
カトリックは前提として、信仰により救われるとしながらも、教会の権威を高めるために、信徒にさまざまな「行い」を義務として課した。これがさまざまな誤解を生んでいくのである。
しかし、先のマインドフルネスの話に帰ると、キリスト教徒もすでに「青空」はもっているのだ。
信仰というのは、さまざまな困難を経て獲得するものでもないし、善行を積むことで初めてそれに気づくというのでもない。
それは、本人の自覚を超えることで、すでに「持っている」と考えるとわかりいいかもしれない。
『ローマ人への手紙』のなかで、パウロは、被造物も言いようのない呻きでもって祈っている、といっている。
被造物というのはキリスト教用語で、造られたもの、つまり人間や自然界のあらゆるものを指す。それらが、本人の意図とは関係なしに言いようのない呻きで祈っていると。
つまり、いいかえると、誰しも、また動物や植物でさえ、祈りはすでに持っているのだ。
しかし、難しいのが、だから信者は何もしなくていいというのではない。日々の努力がなければ、知識や知恵は色あせていく。
青空はすでにあっても、ふつう我々には見えない。気づきは注意深さになかにしかなく、注意深さは毎日の小さな作業のなかで育まれる。
では、また!
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