十分間のメディテーションで瞑想を習慣化する。

エッセイ

アンディ・プディコムというマインドフルネスの指導者は、短い時間からの瞑想を始めるのがいいと説いている。

何事もそうだが、欲張って、長い時間とエネルギーを費やしても続かない。

まずは、十分間瞑想から。

不思議と、瞑想に慣れて来ると、自然とその時間を求めるようになる。

無理をしない瞑想から始めるのが重要。

ここ数日、アンディ・プディコムの「頭を空っぽにするレッスン」という本を読んでいる。マインドフルネス瞑想の指南書で、ビギナー向けに書かれたものであり、瞑想に関してほとんど知識がないひとでも、かなりとっつきやすくなっている。

著者は、まず、十分間の瞑想を目標にそのための時間を空ける工夫をすることを説いている。何でもそうだが、欲張って始めから、熟達者の真似をしても続かないのだ。二、三日くらいなら、無理してでも、一時間、二時間の瞑想はできるかもしれない。しかし、継続的にひとつの行為を実行していくには、それがある程度、意識しなくてもできるくらいに習慣化されていなくてはいけない。

十分間というのが非常にいいと思った。一時間、何か新しいことをしようと思ったら、それなりの動機もやる気も必要だし、一方これが二、三分なら、短すぎて、物足りない、あまりに負荷が少なすぎると、忘れたり、先延ばしにしたりして、かえって続かないものだ。

しかし、十分間といっても、瞑想の初心者にとってはけっこうこれが長く感じられる。そろそろだろうと、目を開けて時計を確かめると、まだあと三分ほど残っていたりする。

しかし、その坂を乗り越えると、案外、快適なもので、タイマーを設定せずとも、きっちりと十分間を計れるようになったり、または、十分間ではもの足りないように思われることもある。そうなってくれば、次のメディテーションの段階に入ったということだ。

僕は、じっとしているのが非常に苦手で、しばしば、瞑想を歩きながらしている。

キリスト教の世界では(特にカトリックや東方教会)生活そのものを祈りに捧げるという考え方があって、食器をあらうのも、帳簿を記入するのも、あるいは病気で動けなくなることもすべて瞑想になる。

禅では、さらに区別を避けようとする。座禅を組んでいるときも、廊下を布巾で拭いているときも、上下なく同じ修行なのだ。

ようするに、メディテーションをどのようにとらえるかで、そのひとの生活そのものへの見方が大きく変わって来るのだ。歩くことも当然祈りになるし、十分間の時間を設けて仮にそれにまったく集中できなくてもそれは立派に瞑想なのだ。「こだわらない」という態度が肝要。

瞑想が慣れて来ると、自然とその時間を求めるようになる。

著者は、さらに瞑想が板についた段階のことも述べている。

瞑想が習慣になってくると、たとえ短時間であっても、日々の生活のなかで、それをする時間を求めるようになるというのだ。

瞑想自体は苦行ではない。ポジティブな考えに自然になれるし、短い時間の瞑想でも、それが終わったあと、頭は非常にクリアで、集中力も上がっている。

しかし、こうした気づきはとても微妙なもので、味の濃いものを舌で感じるようなダイナミックさはない。どちらかというと、薄い煎茶を毎日飲むことによって、ようやおぼろげにその深さに気づいていくような、非常に繊細なものだ。

そのためにも、毎日、たとえ細切れであっても、ちょっとずつ瞑想を習慣化していく必要がある。

中世の哲学者のトマス・アクィナスは、善きことは、意志にとって心地よいといっている。つまり、他人への奉仕も、勉強も、仕事も、必死にくらいついて自己を克服してやるようなものではなく、ごく自然に、心地よいから、それを実行するというものだ。

瞑想が教えるのもまさにその点で、やはり物事はすべて多面的なのだ。

では、また!

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