静かな生活に必須の散歩。散歩のリズムと生活のリズム。

エッセイ

静かな生活にも努力が必要で、一番てっとり早いのが、散歩をすることだ。

生活にもリズムがあり、それは普段の色々な動作のなかで、整えられて行く。

散歩にももちろん、リズムはある。散歩は、ゆっくりとした動作が基本だ。

「静かな生活」もリズムも身体的なこと。散歩すると影響は大きい。

静かな生活にも散歩にも努力が必要。

偏見かもしれないが、散歩が好きというひとに悪いひとはいないように思う。

私は、数年前からウォーキングをするようになった。単に運動のためというよりは、歩きながら色々と考えるのが好きだからだった。

普段は、一時間程度の軽い散歩で済ましているけれど、時々思い立って、丸一日を歩くことに費やすこともある。ときに、音楽を聴きながら、時に黙想しながら、街から街へと歩く。

歩いていると、同じようなハイカーに出会って、声を掛けられるときもあるが、みな生き生きとした顔をしている。散歩好きに悪いひとがいないと思うのはこんなときだ。

散歩というのは、ほんとに単純な動作の繰り返し。毎日これをすると、頭のなかも単純になって来るのだろうか、静かな生活というのが板について来るように感じることもある。

もっとも、静かな生活といっても、そう優しいものではなくて、人間というものは、いかに退屈していても、頭のなかは忙しくなるようにできているのだ。

だから、けっこう意識して生活していないと、「静かな生活」なんてものは、訪れてはこない。

散歩をするというのも、これ意識して生活するということ。

村上春樹がエッセイで書いていたけれど、走るのが好きな村上さんも、億劫で走りたくないという日もあるそうだ。

散歩は、走ることよりも、体への負担も少ないし、準備もいらないし、楽だ。

それでも、単に歩きに出かけるということを億劫に思うことがある。習慣に出来ていないときや、だらけて、生活リズムが狂ったときなど、特に、外に出たくなくなる。

「静かな生活」に努力がつきもののように、散歩にも多少の努力が必要なのだ。

そして、散歩ほど、静かな生活に直結するものもない、と、私なんかは思う。

散歩のリズムは、生活のリズムに影響する。

散歩と聞いて、それを激しい運動のようにイメージするひともないだろう。

村上春樹は、マラソンやトライアスロンをする理由として、人生をエキサイティングにしたいからだ、とエッセイに書いている。

エキサイティングという言葉に魅力を感じてその通りに生きようとするひとも確かに少なくないようだ。スポーツマンに多い。

けれど、私のようにどこか年寄りじみたオタクの男からすると、それをちょっとしんどいな、と思うのだ。

歩くことは、エキサイティングとは趣が違う。もちろん、歩き方にもよるが、景色を楽しみながら、あるいは瞑想をしながら、ゆっくりと足を運んでいく動作は、心身への刺激といよりは、癒しに近くなる。

そのひとの行いがそのひとを形作っていくとは、宗教家ならいいそうなことだけれど、それがほんとうだとすると、散歩をするほど、そのひとは「散歩的」なひとになっていくということだ。

散歩は走るより、泳ぐよりよほど、静的だ。

エキサイティングもときにはいいけれど、私はほのぼのと、落ち着いた動作のほうを好むようになった。

体内時計というように、体のなかにはリズムがあって、これは生活のなかで整えられて行く。

「散歩的」な人間は、当然「散歩的」なリズムになる。

「静かな生活」にも、生活する以上、リズムはあるもので、エキサイティングなひとは、その通りのリズムになるだろうし、落ち着いたことが好きなひとはそういうリズムになる。

「静かな生活」のリズム。それは、歩き方にも表れるし、歩き方も生活に影響する。禅では身体を見るようだ。人間の生活もしょせん身体的な動作の連続。

では、また!

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