同じような日が続くのは嫌?人間はルーティーンのなかでしか生活できない。

エッセイ

「毎日が同じような日」という表現は、悲観的な意味で使われることが多い。

人間は飽きやすくて、自分が設定したルーティンにもすぐに嫌気がさす。

でも、人間は一方で「はんぷくするもの」だ。

災害でなどで、非日常がやってきても、ルーティーンを求める。

ルーティーンが生活を作る。

ルーティーンは死活問題。

毎日同じような日が続くというのは、しばしば嘆きの言葉として使われる。

退屈だとか、人生の無意味さなどをそこに照らし合わせている。

確かに、人間というのは毎日、同じような日々を営んでいる。同じ時間に起きて、同じような食事を取って、同じ電車に乗って、同じような仕事をする。そうして、人生が過ぎていく。

見方によっては、これは不幸となるのだろう、映画やテレビドラマでもそのように演出されることがある。でも、そういう見方こそ不幸ともいえる。

毎日が同じような日というのは、表現としても陳腐だ。

ひとは、見たいものを見るというが、それがほんとうなら、日々に退屈さしか見いだせないひとは、退屈を好んでいるということになる。

とはいえ、人間の生活が同じような日々によって成り立っているのは一面、真実だろう。

同じような日々を人間はきっとこころの底から欲しているのだ。

地震や洪水やクーデターが毎日起こったとしたら、人間求めるものはひとつしかない、「安心」ということになる。そして、安心というのも、「同じような日」の連続で成り立っている。

地震や洪水があって被災しても、ひとは「同じように」生活しようとする。ルーティーンというのは、それほど、人間にとっては死活問題なんだろう。

先日、日上秀之の「はんぷくするもの」を読んだ。いわいる震災文学にあたるもので、お気楽なものではない。けれど、深刻さを描いているのでもなかった。深刻なことを暗く書かないということは、小説の作法ともなっているのだけれど、この作品もそれにならっているようだ。

主人公は、大震災で家が流されて、仮設住宅で母親と暮らしている。近くで、仮設店舗で日用品を売っている。しかし、商売にはならない、過疎地で、そもそも人口が極端に少ないので、お客が来ないのだ。それでも、主人公はこの店を営んでいくことに執着して、毎日、仮設住宅と店舗とを往復する、つまり「はんぷくする」のだ。

しかし、「はんぷく」はそれだけではなかった。何かしらの問題が毎日起こるので、それを倫理的にどうかと彼は煩悶するのだ、考えても解決できない「倫理的」諸問題を「はんぷく」する。そして、主人公はまた同じところに帰っていく、これも「はんぷく」だ。

東北の地震、それ自体非常事態だ。そこで、毎日「同じような日々」を過ごしていたひとが、急にそのルーティーンのそとに投げ出される。この作品の主人公も家が流されてしまった。

でも、生活というのは、切実なもので、いやでも後ろから追ってくるものだ、生きていかなければならないし、そうするためには、日常をどうにかルーティーンに戻さなくてはならない。

おもしろいといってもこの場合、不謹慎でもないだろう、主人公の毅は、店がもうだいぶ左前になって、貯金減ってきて、しかも、母がもう店をたたもうといっているのに、相変わらずそれを続けようとすることだ。

それは、熱意や志あってのことではないし、かといって惰性からそうしようとするのでもない。

「倫理」がそれを引き付けるし、「倫理」的な煩悶がそこから引き離そうとする。

主人公は、いろんな問題を抱えながらも、自分で解決するだけの意欲がない。意地がない。

弱さと、煩悶が店を続けさせる。

人間にいとおしいところがあるとすれば、結局は、「同じような日」しか生きられないところにあるんだろう。

では、また!

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