人生は過ぎ越しという考え方。キリスト教の人生論。

エッセイ

仏教から人生観が離せないように、キリスト教にも人生論というものがある。

コヘレト書に「空しい」という言葉が繰り返されているように人生とは「空しい」もの、それにこだわるのは間違っているという考え方がある。

正教会では「人生は過ぎ越し」といい、カトリックでは「人生は巡礼」といったりする。

人生ははかないものなのか?

正教会のある神学者によると、この世の生活は、あの世までの過ぎ越しにしかすぎないという。

おそらく、中世の時代、ひとの死がもっと身近にあったころは、こういう教えはわざわざ教会で教えられるまでもなく、人々の生活の中に自然にそなわっていたことだろう。

中世のヨーロッパでは平均寿命は三十歳だったといわれている。寿命の長さは、栄養と医療の発達に比例するものであるから、中世といえば、多少の地域差はあるにしても、中国でもロシアでも日本でもそう大きく変わるものではないと思われる。

三十歳で死ぬ、ということは、現代人の感覚からすれば、あっという間に死んでしまうというような印象を受ける。大学を卒業し、社会に出て、ようやく半人前になろうとすることにコロッと死んでしまうのだ。

当時、神学者になろうとする者は、基礎的な勉強を終了するだけで、十年かかり、教師としてやっと独り立ちするまでにさらに十年かかったといわれている。つまり、十五歳で神学の勉強を始めても、プラス二十年で三十五歳、でも、平均寿命が三十歳だから、大半の神学生は教師になるまでもなく、勉強するだけで人生を終えることになる。むなしい、とか、ああ無常とでも当時のひと嘆いていたのだろうか、しかし、当然昔はそれが当たり前のことだった。

三十歳で死ぬとなると、あっという間だと、現代の私たちはそう思うが、でもそれは、四十を越して、過去の記憶にこだわらなくなってから初めてそう思われるもので、三十代の人間にとって、それまでの三十数年の人生というのは、個人差はあっても、かなり長いものに思われる。

若いというのは、身の回りの細々したことをいちいち記憶していて、普通に不自由なく暮らしているようでも、苦労は多いものだ。子供の時間は誰でも長いが、それはいちいちいろいろなことを記憶してしまっているからだ(もっともその大半は、短期的に忘れ去られていく、それほど、若いとは覚えることが多すぎる)。

これは、生物学的なもので、例えば犬や猫でも子供のときは、いろいろと好奇心を示すが、大人になると、ほとんどのできごとに無関心になる。彼らのなかでも時間の流れようは変化している。

おそらく、現代人にとっても、中世の神学生にとっても、若いころというのは、時間が濃密であるはずだ。食事の量も違うし、他の環境も大きく違うので、まったく同じとはいえないにしても、やはり、当時の老人に比べ、当時の若者は時間への考え方が違う。

この記事の最初に、人生は過ぎ越しに過ぎないと述べたが、当時の青年たちがどうこれを受け止めていたろうか。

先にあげたのは、正教会の高橋保行神父の神学の一節だが、カトリックでも「キリストにならいて」という聖書に次いでよく読まれているといわれる信心書では、「人生は巡礼」という言葉が出て来る。つまりこの世には頼るすべもなく、本質がないとする。プロテスタントではまた考え方も違ってくるが、カトリックではこの世の貧しさを非常に強調する。「貧しくあれ」というのはまた、イコール金銭的貧乏だけを指すのでもなく曖昧なことであるけれど。

中世の時代、いくら死が身近にあるとしても「人生は巡礼」だとし、若者がごく若いうちになにかを悟っていたかというとおそらくそんなことはないだろう。若いとは感じる生き物だ、それだけに人生が長く感じられる。

しかし、周りに死が満ちているというのは、現代人にはない特権であるともいえる。「人生は巡礼」にしても「人生は過ぎ越し」にしても人間がコロコロと死んで行くという環境抜きには語ることはできない。

では、また!

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