休日、大阪に行った。午前中は本屋に行って、売れている本を見て回った。
なぜ売れるのかはっきり分からない。それがいい。
午後、美術館に行く。押して歩く壁の作品があった。よく分からない。それがいい。
その前に、蕎麦屋に行った。店主は不機嫌だった。分からない。これでいいのか?
分からないから、おもしろいということもあるようだ。
私は仕事の都合で、木曜日を休日にしている。先日も、この曜日に、自分の褒美として、大阪に行った。特に用事があったわけでもなく、ただ、本屋をぶらついて、時間があれば、美術館に行こうと思ったのだ。
本屋に行っても、つい私の頭はビジネスマンのように回ってしまう。どんな本が売れているか、売れる本はどんな構成になっているか、文章は? おそらく、そんな風に考えて、仕事をしている平日よりも忙しい。
けれど、どんな本が売れるかなどは、出版社のひとにもはっきりと分からないらしい。
もちろん、売れる本には型というものはあるものだ。エンターテイメントの小説を捲っていると、そこには驚くほどの類似点がある。俳句の五七五ほどではないにしろ、構成にも文章にもルールがあったりする。おそらく、「売れる」、つまり、読者の興味を引く勘所といったものを、そうした型はちゃんと表現しているのだろう。
でも、やっぱり何が売れるは出してみないと分からないのだそうだ。
本屋に行くと、売れている本というのは、一目で分かる。平積みにされている本はまず売れている本で、その期間が長いほど、よく売れている本ということになる。
純文学は売れないといわれているが、純文学でも売れるものは売れる。三島由紀夫のように晦渋な表現の小説もいまで若いひとを含め、多くのひとに読まれている。
また、エンターテイメントでも先にいったような型に収まらないものもあって、それがまた読まれていたりする。
つまり、「売れる」はっきりした基準というものはないのだ。それがまた本の深みであり、おもしろいところだ。
休日の話を書くはずが、うっかりビジネスの話になってしまった。ちょっと戻す。
本屋に寄ったあと、国立国際美術館に行った。私は現代芸術が好きで、ここにはよく行く。淡いブルーを基調にした寝室を描いた絵があった。布団が捏ねてあった。こんな日常的な絵が私は大好きだ。
しかし、現代芸術を美術館で一度でも観に行ったひとは分かると思うが、それはなかなか理解しがたいものだ。美術史のコンテキストをちゃんと踏まえておかないと作者の意図は読み取れない。
私も現代芸術の歴史にはまったく無知なので、いつも作者の意図なんかすっとばして、観た印象だけを楽しんでいる。よく分からない、それがいい。
でも、今回の展覧会ではこちらの平凡な理解をはなから拒否するものがあった。体験型の作品で、動く壁をただ押していくのだ。これに意味を求めるほうが野暮だろう、けれど、はっきりと意味は分からない。ただ壁を押して歩くだけだ。
でも、私はこれもおもしろいということにした。なぜなら、よく分からないからだ。
分からないということでは、もうひとつこの日あった。それは蕎麦屋のことだった。食券を買って、注文をする店なのだが、私はどの料理にしいようか、食券の自販機の前で思案していた。店は空いていて、私の後ろに客はいなかった。ゆっくり悩んでいいはずだが、店主はいらいらしたように、テーブルを箸で叩いて、リズムを取り始めた。決めて、食券を渡すころ、主人はちょっと不機嫌だった。そんなに私は悪いことをしたのか。
けれど、店の主人の心のなかは分からない。なぜ怒っているのかよく分からない。
不機嫌な人間ほど、現代芸術にふさわしいものもないのではないか。
でも、この「分からない」はあまりおもしろくなかった。そこまで、私は人間ができていないようだ。
では、また!
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