知識人にならなくたっていいや。

エッセイ

なまじ物書きとしての活動をしているので、勉強して必要な知識は獲得しなければならない。

でも、これがたまにうっとうしい。

私は、芭蕉や良寛のような流浪の詩人に憧れ、彼らが知識人でなかっただけに、自分の努力が無駄のように思えて来る。

暇だからそんな悩みも起きる。

知識の獲得もけっきょく中道。

最近、さぼり癖がついてしまって、睡眠をよくとれなかった日などは、その日の作業をおやすみにしてしまうことが増えた。

これはよくない傾向だ。

さぼるとそれだけ生活のリズムが崩れる。そうなると、次に作業に取り掛かるモチベーションが減退してしまう。

しかし、さぼると、もっと不都合なことが起きて、それはなまじ暇になっているから、悩み事が起きやすくなるということだ。

私は、本を読むのが好きなので、さぼっているときは、たいてい小説や学術書などを読んでいる。それは、まったく私の趣味的なことなのだけれど、やはり、勉強とは欲も働くもので、知識を獲得すればするほど、学者になりたいという思いがふつふつと湧いて来る。

といっても、職業として、例えば、大学の先生になりたいというのではない。私には学歴もなく、歳も三十五の中年なので、いまから大学教授を目指しても現実的ではないのだ。

一方、私は物書きとしての活動をしているので、この仕事には必ずインテリジェンスが求められる、学者のようでなくても、その端くれくらいの学問はしなければならず、いきおいそれが知識崇拝へと走らせてしまうのだ。

実は、これを書いている朝も、仕事をさぼるつもりでいた。朝食のあとに、コーヒーを飲みながら、ゆっくり本を読むほど私に幸福なことはない。カフェインは、私に高揚感を与えてくれるし、本は私の知識欲を満たしてくれる。

でも、幸福とは長続きしないものだとはよくいったものだ。やはり、本を読んでいるとはいえ、頭は仕事をしているときよりも暇であるようで、悩みのほうへと活動の主体を移していった。学者になるべきではないだろうか? なんて。

作家には、学者ではないが、知識の権化のようなひとはやはりいるもの。といって詳しくは知らないが、おそらく、三島由紀夫がそうだし、現代でいえば、平野啓一郎さんもそうだろう。

私のようなほとんど無学な人間からすると、知識が豊かであるというだけで、もう相手に対して尊敬の念を持つ。それはいいことだ。

でも、私の好きな「キリストにならいて」という信心書には、知識人批判ともとれる一文もあり、それを思い出すたびに、知識人への自分の憧憬がくじかれる思いがする。

ちなみに最近、良寛と芭蕉の評伝を読んで、その生き方に啓蒙されたが(とかく私は影響されやすい)彼らも知識人ではなかった。流浪の詩人で、知識に隔たっていては、彼らの偉業もなかったろう。

そんなことで、私は知識の獲得とその捨離との間で、ときに迷うのであるが、でも、どうすべきかはっきりしているのだ。

それは、仕事をさぼるなということだ。手をうごかしていると、それに見合った解答は見つかるものだが、悩みにあると、頭がいそがしいばかりで、なにか理屈をつけても腑に落ちない。

私は、知識人になれるだけの能力もないが、やはり知識は必要に思うときは往々にある。

手を動かしていれば、どんな知識が必要かは直観的に理解できるが、悩みにあると、欲張ってしまう。

最近は伝記ばかり読んでいて、アウグスティヌスの評伝を図書館で借りて読んで、そこに中道という言葉を見つけた。いかにもそれは仏教的な考えでもあるようだが、キリスト教もこれから外れると、それこそ自殺的な禁欲主義に追い込まれるか、反対に快楽主義に走ってしまう。

知識も同じことだ。

必要なものだけあればそれでいい。

今日はさぼらないでいたので、よい解答をみつけた。

では、また!

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