幸せは外から来るのでなく、自分の内側にすでにあるということ。

エッセイ

幸せは誰しもが求めることだ。

幸せになるために金儲けをし、金儲けのために勉強もし、身を粉にして働く。

幸せが外からくるものと考えると、はっきりいって、金儲けくらいしかそれを得る方法はない。

しかし、幸せとは内面の感情の動きのなかにしかない。

それを悟るにはいろいろことを捨てる必要がある。

幸せが外から来ると考えるなら、幸せになるには金儲けしかない。

作家のphaさんが『持たない幸福論』というエッセイのなかでこう豪語している。「だいたい幸せだとか不幸ということはかなり体調とか気分に左右されるものだ」。

若い人ならとくにそう当てはまるかもしれないが、幸不幸というものが外からくるものだと思ってしまうときがある。あるいは、幸せや不幸というものが、確固として目に見えるようなものとして思い込んでいるときもある。

とくに後者は非常な固定観念を自分のなかに作り出してしまう。

YouTubeで稼いだ金額を発表しているひとたちをよく見かけるが、このひとたちは自分の「小金持ち」というステータスを利用して、さらにビジネスを広げようとしていて、実際にその狙い通りに彼の「顧客」になってしまうひとたちもいる。

「顧客」となってしまうひとたちにとって、「こうすれば稼げます」というYouTuberたちの甘い言葉が幸せを生む種のように思ってしまうのだ。

幸せを外的な要因として考えると、「金」というのはもっとも分かりやすい。預金口座に十万円しかないのと、一億円あるのとでは、幸せの大きさが違うような気がする。

もっとも貧乏というのは確かに過酷なもので、仕事も不安定になればさらに精神的に追い詰められるし、だからといって気晴らしに旅行に出るということもできない。

その部分だけを見ると、金はないより絶対にたくさんあった方がいいように思う。金はあっても損はしないが、なくては精神状態も悪化しやすい。ドストエフスキーは金がいやらしいのは、そのひとの生き方にも影響しているからだといっている。

幸せが外からくるもだと考えたなら、それを獲得するためにすべきことははっきりしている。金を稼ぐことだ。金さえあれば、快適な住まいに住める、人気者にもなれる、恋愛もできる、ということだ。

幸せのために何かを得るのではなく、もうすでに内側に幸せはあると考える。

さて、ここで、phaさんの言葉に帰りたいと思うが、幸せや不幸が気分やそのときの健康状態に左右されるという見方は、先にあげたような幸せが外からくると思い込んでいるひとにはなかなか悟りがたいことだ。

例えば、幸せを得ようと金儲けに熱心なひとは、自分の気分や健康状態が悪くても、それが「自分が幸せでない」根本原因とは考えないもので、やはり金がないから不幸だと考える。

いまの状態の変化が幸不幸として考えられるようになるには、いまの状態に敏感でなくてはいけない。

しかし、金儲けを頑張るということは、常に先を見ていて、いま現在の状態はないがしろにされている(注:僕は金儲け自体を否定しているのではない)。

先のことを見据えて、いまの気づきをないがしろにするのと、先ではなくいまあるべき姿に注目するのとは、マインドフルネスの観点からは、どちらが健康的かはもうはっきりしている。

日本文化には「わび」や「さび」という精神的な空虚を意味する言葉がある。空虚と言ってはまた違った意味になるが、季節の移ろいのもの悲しさを思い浮かべたらわかりいい。

しかし、「わび」「さび」も何かを諦めなければ得られないもので、激しい物欲をそのままにしていては何も悟れない。

本来、幸せというのは貧しさのなかにしかない。これは「貧乏」とは少しニュアンスが違うのだけれど。

ようするに感性の問題なのであって、自分の内側の動きに目をやるには、外から来るものは少しずつ捨てて行く必要がある。

では、また!

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