文章を書くにもリズムというのがある。
小説を書く時これを掴むと作品に没頭しやすくなる。パソコンよりも手書きのほうがリズムは掴みやすい。
手書きは間違いを訂正しずらいので良い緊張感がある。
また視野が狭いので構成に気を取られずに、文章のリズムに乗りやすい。
パソコンからは生まれない文章。
最近また、原稿用紙で小説を書き始めた。
Kindleに発表しようかと考えているので、どのみちパソコンで書き直さなければならず、やはり手間だ。
しかし、それであっても原稿用紙で書くことの利点はあって、やってみてまったくの時間の浪費ということもない。
村上春樹もいっていたけれど、パソコンで書く文章と、手書きとでは違いがあるのだ。
手書きでしか、出せない文章の妙味というものがある。
村上さんによれば、三島由紀夫も太宰治も中上健次も、手書きであったから彼らの個性があった、というふうに評していた。
確かに、三島由紀夫の懐古的で美麗な文章が、利便性の権化のようなパソコンから生まれるとは考え難い。
三島も太宰も、手作業で職人気質に徹したからこそああいう文章が書けるのだ。
私は、たいして懐古的な人間でもないし、現代のテクノロジーに疑念を持っているわけでもなく、パソコンで書く作家を批判したいわけでもない。
でも、私にも職人気質のようなものはあって、自分の書く文章にはこだわりをもっている。
とくに、文章がスベることに関しては神経質で、そういうことが起こると、その部分に構成上問題がないかのように見えても、消すようにしている。
リズムが狂うというか、落ち着いていられなくなる。
文章がスベるというのは、適切な言葉づかいの問題ではなくて、自分の感情に、書いた文章がマッチしないことだ。
だから、仮に文法上あきらかな間違いがあっても、それが自分の感性に適当であればそれを採用するし、反対に文法上は問題なくても、文章に嫌な感じがしたら削る。
こういうことは有名な作品でもままあることだ。
この文章がスベるということだけれど、パソコンで書いている方が良く起こりやすい。
パソコンの文章が「スベる」原因。
パソコンはいくら書いても、すぐに消せるし、また途中に文章を入れ込むことも簡単だ。推敲しやすい。
だから、なんでも良いから、キーボードをパチパチ打って文字を書き連ねていけばよく、気楽なのだ。
いまいち緊張感がない。
これが文章を緩ませる結果になっている。
手書きなら、やったことのあるひとなら分かると思うが、あんまり間違いが多くなるとイライラしてくる。その度に、その用紙を捨て、また書き直さなければならなくなる。
結果として、丁寧な書き方になるし、そういう気持ちが文章を引き締める。
また視野の問題もある。
パソコンはどうしても文章を俯瞰して見てしまうので、作品世界に没頭することよりは、文章上の構成に目が行きやすく、それが作品を書く際のドライブ感を削いでしまう。
原稿用紙の場合は、版画でも掘るようにそれに張り付いて書いて行くので、作品の構成にはあまり気を取られずに、文章のリズムに忠実に書くことができる。
この文章のリズムに自分を合わせるということが大事で、これさえあれば文章はスベらない。
しかし、原稿用紙で書くのはやはり面倒だ。
書いたものがそのまま雑誌なりネットなりに発表できればよいのだけれど、パソコンでの書き直しが必要になってくる。
時間にも労力にもよほど余裕のあるなら良いが、思うとおりにいかないのが生活の常だ。
でも、もの書きに限らず、職人はどこか昔カタギのところがあって、こだわりを通したいという気持ちは強い。
時代との話し合いは続いて行きそうだ。
では、また!
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