「忘れる」ことと、マインドフルネス。

エッセイ

受験勉強の弊害か、「忘れる」ことを恐れるひとは多い。

しかし、僕らは勉強したすべてを記憶しているのではなく、忘れるから新しいことを覚える。

だから、忘れることにもっと肯定的にならなければ。

マインドフルネスは忘れることにある。呼吸を観るとき、ほかのことは忘れている。

つまり忘れる練習をしている。

マインドフルネスは「忘れる」作業。

外山滋比古のエッセイ「思考の整理学」のなかで、忘れることの重要性を説いているものがあった。

頭の良い人は記憶力がいい。必要なことはなんでも知っている。ものをたくさん知っているというひとほど、知的に見える。

しかし、コンピュータが登場して事情が変わってしまった。コンピュータに比べれば、人間の脳みそは、記憶に関してかなり限られたキャパシティーしかもっていない。それにコンピュータという便利な道具があるのだから、もう記憶力に頼ってなんでもあまたのなかに詰め込む必要もない。必要なときに、その道具から引き出せればよいだけだ。

むしろ、人間は忘れることを覚えないといけない。

だいたいそのような内容だった。

人間はなんでもかんでも学んだことを覚えているのではない。忘れるから、次の課題を頭に入れることができる。忘れることができなかったら、それこそ、容量の少なくなったコンピュータのようにショートしてしまうだろう。

忘れることは良いことだ。このことをもっと積極的に受け入れられたよいのだが、やはり、受験勉強の弊害か、それに素直になれない。ネットの時代になっても、いまだに博識なひとが、一目おかれたりする。

しかし、外山滋比古さんにいわせると、昔ほど、博覧強記のひとは多く見なくなったという。

僕はこのブログでしばしばマインドフルネスについて言及しているのだけど、マインドフルネスの観点からも知識への過度な執着というのはやはり良くない。知識を得るというのは、いつの時代もそれが正しいとされることが多いので、勉強熱心なひとなら、誰しも知識の獲得に熱心になる。

僕は自分でいうのも気が引けるが、ひとに比べるとけっこう勉強が好きなほうだ。ここ数年、神学の研究を続けている。神学というのは、基礎の段階を終えるまでに、十年はかかるとされている。つまり、ほんの二、三年、独学で神学書を読んでいるだけでは、まだ、初心者の域をでていないのだが、それでもこの勉強に熱心になるにつれ、弊害というものも出てきている。

神学は観念的なことをやたらと記憶し整理する学問だ。神の三位一体の議論など、その最たるものだ。

やはり、観念的な作業に熱中すると、どうしても頭が忙しくなる。目の前に美しい景色があっても、つい、さっき読んだ本のことを反芻して、何も見えてこない。

そればかりでなく、観念的な勉強(読書とは全部そういうものだ)を続けていくと、どうしても、観念的に考える癖ができる。直観的に悟るというよりは、推論でものを判断する。

それは悪いことではない。しかし、弊害もやはりある。

禅寺には本がないという。禅の修行は徹底して、フィジカルに集中する。もちろん、公案という知的訓練もあるが、これも観念を掻き立てるというよりは、固定観念をむしろ、壊す作業だ。そういう意味で、フィジカルの訓練と切り離せない。

本というのは、知識欲を掻き立て、知識に執着をさせるが、それは、忘れることへの恐怖を育てる。

マインドフルネスの訓練をしているとき、あるいは、何かを祈っているとき、僕らはひとつのことに集中しようとする。呼吸を観るとき、ほかのことはおそらく忘れている。

つまり、マインドフルネスは忘れることを恐れないためにあるということもできる。

知識への執着は頭を忙しくさせ、重くさせるが、マインドフルネスはむしろ、固まった血をほぐし、体へもどす作業だ。

では、また!

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