ファッションにこだわらないと楽。自意識過剰を卒業すると自分が淡白になる。

エッセイ

ファッションにこだわらないと楽というのは、当然のことだろう。

ファッションとは気をつければ気をつけるほど、自意識過剰になって行く。

ファッションにこだわるのも明らかに煩悩のひとつだ。

楽に生きようと思うなら、やっぱり煩悩はない方がいい。

ファッションもほどほど。

ファッションも結局は中道。

先日、橿原のイオンモールのスターバックスに行った。しばらく行かなかったのだが、スタバのコーヒーは嫌いではない。

たいてい私は、スーパーでボトルで売っているアイスコーヒーで済ませているが、たまには違った味も良いものだ。

コーヒーに特にこだわりがないように、私はファッションにもこだわった記憶がない。いや、中学生の一時期、色気づいてファッション誌を読み漁り服屋巡りもしていた時期もあったが、ほんの限られた期間だけだった。高校生にもなると、制服で満足するようになる。でも、ピアスを開けていた時もあって、徹底はできていないのだけれど。

スターバックスに行ったとき、お洒落な青年がいた。お洒落というのは、ちょっと言い過ぎかもしれない。若者らしく、風体をとりつくっていたが、かっこよくなかった。髪はピンクにし、ぶかぶかのフリースに、ぶかぶかのカーゴパンツを着ていた。それが流行りの服装であるのかどうかは私にわからなかったが、私はあまり感心しなかった。

青年は二十歳くらいで、もうひとり同じような格好をした連れがあった。彼は髪の毛は黒色だったが、パーマをかけて、毛がくねっていた。類は友を呼ぶというが、彼らはまるで兄弟であるかのようだった。というのも、歩き方も振る舞いも、自分たちが周りに見られているかのような錯覚をしていて、かなり不自然だったのだ。

おいおい誰もお前のことを見てやしないんだ、もっとしゃんとせい、というのはいかにも野暮だ。私もそういってやりたい気持ちがあったが、若いってそんなもんだよな、という気持ちもないでない。

しかし、若くても、自分がどう見られているか、まったく関心がないひともいる。何か熱中するものでもあれば、なりふりなんて構ってもいられなくなるが、そうでもないと、やっぱり、自意識過剰になってしまうのだろうか、それはちょっと不幸だなと思う。

ファッションとは魔的なものなのかもしれない。それにこだわれば、やはり周りの目が気になるし、誰も見ていないのに、見られているような気になるときもある。

中学生のとき私は打ち込むことがなくて、ファッションを気にしたが、途端にモテたような気がした。でもあとで思い返せばはっきりと、それば思い込みなのだ。

かっこうをつけるという言葉がある。文字どおり、かっこいいような風体を取ってつけるのだ。そのひと本来のものではない。借り物の姿で、虚勢を張るのだ。

ファッションがもちろんそれだけでは説明はできないにしても、そういう性格の部分もあることだろう。ひとによっては、それが強く出てしまうし、先の青年たちもおそらくファッションに呑まれているのだろう。

そういう私もきっとそうだ。私は幸運にも若い時から、熱中できるものが多くて、かっこうに気をつけるということがなかったけれど、そういうものがなかったら、きっとぶかぶかのバギーパンツなんかを穿いてがにまたで道を歩き、俺はかっこいいと思っていたことだろう、考えるとちょっと怖い。

ファッションに気を使わないということは、煩悩がひとつ減るということだから、そのぶん身軽になれる。ファッションに気を使わないといことは、それだけ、自分が淡白だ。

もちろん一概にはいえない、ただだらしがないひともいて、そういうひとは自意識過剰人間よりも迷惑なときがある。

中道というのは難しい。ファッションにおいてもそれは例外ではない。

では、また!

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