日本文化を英語で表現するということ。

red and black temple surrounded by trees photo エッセイ
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海外発信でも日本人は日本にこだわりすぎる。

日本ではあまり見かけないが、バイリンガル作家は海外ではそう珍しいことではない。もっと広い意味で、例えば、フリーランスライターやジャーナリストも作家に含めるとしたら、きっとそれだけで、一つの産業として成り立つくらい、外国語で書いて生計を立てることはそれほど得意なことではない。

私は、(ここしばらくサボっているが)Mediumtというブロガーのプラットフォームでエッセイを書いていたが、英語ネイティブでない人達が、それこそ、ネイティブと遜色がないくらいこなれた英語を書いて自分の意見を表現している。

トピックもさまざま、意見もさまざま、しかし、共通して感じられるのは、彼らのビジネス感覚が(ポジティブな意味でだが)かなりシビアにかつフラットにできていることだ。

いくらかの日本人も英語でエッセイを書いているのを見かけたが、みな一様に日本人であることに非常なこだわりを持っている。おそらく日本人ほど、自国の文化にこだわりが強くて、ビジネスにもそれを結びつけたがる人々もいないだろう。

これはかなり特殊と言える。

Mediumにはアメリカ人だけでなく、イギリス人もいるし、オランダ人もいれば、スペイン人も、それから、韓国人も見かけるが、自国の文化を喧伝しているのは、日本人くらいなものだ。

私は、それを否定的に捉えているわけではない。日本文化、日本人の考え方といったものは、かつてないほど、今世界から注目されているし、アニメ、漫画、ゲームから派生して日本語のスラングが今や英語になっている。

日本文化が売り手市場である限り、積極的に発信をして行かなばと考えるのはしごくまっとうなことだ。

しかし、一方で、日本文化が売り手市場であることと、日本人が日本文化(といってもほとんどサブカルチャーだが)にしか関心がないこととは少しベクトルが違う。

日本市場が売り手市場であるなら、むしろ、海外文化を積極的に評価しその中に入って行かなばならないが、多くの発信者は、日本で消費したことをそのままの形で、翻訳している(もちろん脚色はある)。

これももちろん、需要があって、大変な消費量なのだが、一方で私の僻み根性からすると、少しオリジナリティに欠けると思うのだ。

どうせなら、日本の哲学や美学を、例えば、環境問題やメンタルヘルスなどもっと喫緊で重大な問題に適応し変換して語れば、きっともっと本質的なインパクトをメディアを通して与え得ると思うのだが、これは少し、穿った見方だろうか。

思うに、発信者が不足している。日本文化に精通し、かつ英語を自由にこなせる人材などそう簡単に出来上がるわけではない。大体どちらかに偏ってしまう。

日本文化の専門家はたいてい日本語しか介せぬし、英語ばかりやっている人はそもそも自国の文化に疎い。

アレックス・カーさんのような特異な例もあるが、まず多くの人に彼のような能力を求めるわけにも行かない。

しかし、反対に考えたとするなら、日本文化を英語で学びつつ、発信を勉強していけば、これから若い人はいよいよ活躍の場が広がるということだ。

なんせ、日本文化は売り手市場なんだから。

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