散歩をすると自分が無くなっていく。
歩きながら、考えることを手放す。
そうするだけで、ずいぶんと、生活にメリハリがついてくるものだ。起伏の多い精神のありかたも平板になっていく。
詩人とは考えないものだ。私は詩人になりたい。詩人が見たように景色がみたい。
考えることをやめてみる。
庄野潤三さんは毎日歩いたそうだ。
仕事が終わってから、あるいは買い物のついでに散歩をする。
途中、ご近所さんと話をしたり、子供に話しかけられたり、鳥の声を聞いて空を見上げたりする。
そして、それをまた文章にする。
私は、庄野さんのエッセイを読むと、いつもほっとする。自分が力み過ぎていたといつも気づかされる。
庄野さんの真似をしたわけではないが、私もよく散歩をして、それを日々の運動ということにしている。
庄野さんと同じようにたいていは決まった道を行く。
私の住まいの近所には広大な古墳公園があって、そこを一周ぐるっと回るのだ。
だいたいそれで一時間半にはなる。
でも、私は景色を楽しんでいるのではなかった。
最近はそうでもないが、もう三年ほど前は、歩いても、考え事ばかりして、路肩に綺麗な花がさいても気が付かないこともしばしばだった。
沈思黙考といえば聞こえは良いが、「下手な考え休むに似たり」ということわざの方がしっくりくる。
どうせろくなことは考えない、それが休んでいるのと同じなら、私は年がら年中休息していたことになる。
そのあたりは、庄野さんとは違うところだ。
でも、考えをやめたいとはつねづね思っていた。時間の無駄だという自覚もあった。
そんなときにたまたま永平寺のドキュメンタリーを観た。
禅の修行僧は座禅を組む。ほとんどそれで一日が終わる。
あと、掃除をしたり、お経を読んだりもするが、私が気になったのは、彼らが寺の境内をひたすら駆けるように歩いていることだった。
彼らにとっては、それも運動になるらしい。
その間、彼らはいったい何を考えているのだろうか。
禅のお坊さんだから、色々と生活上の計算をするのでもないし、将来の計画で悩んでいるのでもないだろう、きっと何も考えないようにしているか、考えていることを見ようとしているのだ、それがもっともらしい。禅のお坊さんなんだから。
私は自分で立てた問いにそのように解答を見出してから、自分も真似てみようと思った。
つまり、歩きながら考えないでおこうと思ったのだ。
実行してすぐに成果が見えたのに、私はびっくりした。
いや、びっくりはしなかったが、おもしろいものだと思った。
生活にメリハリがついてくるし、それまで熱心になっていたものが、無益なことに思えてくる。
起伏のあった精神的な部分も平板になった。もっともまだ始めて数年なので偉そうなことはいえない。
「考えるひとは多いが、感じるひとは少ない」とどこかで聞いたが、確かにひとは同時にふたつのことに没頭できないのだ。
考えながら何かに見入ることはできないし、何かを見つめようとするなら、無心でいなければならない。
詩人は考えない。
作家の小沼丹が庄野潤三は詩人だといった。
そうだ、そうでなければ、散歩中に鳥を見上げたりしない。
私も詩人になりたいと思った。詩人が見るように、草木を見る。
そのために「無」になる。「無」なって歩く。
きっと、「自分」という存在は、枝から枯葉が落ちるように軽いんだろう。
考えるから、自分があるのであり、考えなければ、「自分」という観念も存在しない。
軽いんだ。いや、それもない。
今日もこれから歩く。毎日歩く。
目的があるわけじゃないが、ただいろんなものを落としたい。
では、また!
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