努力しないとどんどん弱っていく。

エッセイ

努力しないとどんどん弱って行くもので、努力というのはまさに健康に直結しているのだ。

私はでも最近、あまりに疲れていたために努力ができなかった。

しんどくてもやるという方法には限界がある。

しんどいときは休むのがいいが、自分を追い込んでなかなかできない。

自分を手放すこと。

しんどいときは、がんばることも休むこともできない。

自分でこういってしまうと自慢話みたいになってしまうが、私は努力をするのがたいへん好きだ。

勉強するのも、体を動かすのも、瞑想をするのも好きで、無職でいながらたいへんいそがしい生活を送っている。いや、送っていた、と過去形にするべきかもしれない。

というのも、ここ一か月ほど、体が重たくて、勉強も体を動かすことも満足にできていないのだ。

タイトルに私は「努力しないとどんどん弱っていく」と書いたが、実際は順序が逆で、どんどん弱ってきたから、努力できなくなったというべきだ。体が重たい。動けない。

原因はまったくわからない。始めは持病の精神障害が悪化したのだろうかと思った。けれど、このしんどさというのは、ほとんど夕食を取ってから寝るまでの時間に限られていて、それ以前は、かなり活発に動けているのだ。これはけして鬱などの精神病の症状ではない。

でも、精神障害は影響していることだろう、三十を越えてから私は異様に疲れやすくなった。単に体力の衰えというものではなくて、これは神経に病気が何かしらの影響を及ぼしているから、と私は考えている。

でもまあ、素人判断をこれ以上敷衍しても仕方がない。

弱って動けなくなって困ったのは、努力ができないことだ。

努力そのものは非常に快感で適度に続けるかぎり、かなり健康的だ。

それによって富も増す。俺はがんばっている、というような自信も芽生えてくる。努力すると元気がわいてくる。

これを逆に表現すると、努力をしないということは、不健康であり、貧乏であり、自信がなく、元気もない、ということになる。

で、まさに私はこの状態にあるのだ。

しかも、努力をしたくてもできないのだから、苦しみはさらに大きい。

弱ってしまったから、努力できないのだが、それが続くとやがて、努力しないことが、衰弱の原因になっていく。

これに対する一番の処方箋は、しんどくてもやる、につきる。本を読むのも、ちょっと体操をするのも、まぎれもない身体の運動であるので、それによって、神経が刺激され、血の巡りがよくなり、元気になるということもある。しんどくてもやる、これにつきる。

しかし、たいていそれができないから、しんどいのだ。動けない、というのは言葉のとおり動くことができないのだ。

しんどくてもやる、ができたなら、もうとっくにやっているし、できないというのはすでにリミットに達している。無理はできない。

当たり前だけど、こんなときは休むのが一番いい。これが第二の処方箋。

人間は休憩に十分から十五分横になるのがもっとも体に負担がないといわれている。三十分寝てしまったら、起きるのが億劫になって、体が目覚めるまで時間が掛かるそうだ。

私の経験上、十分、十五分、それでも疲れが取れなかったら、三十分横になると、動けるようになることが多い。

行動と同じくらいに休憩も必要なことなのだ。

けれど、しんどいときに限って、この休憩ができない、頭が変なふうに思考し始めて、がんばらなければ、と自分を追い込んでしまうのだ。これは努力が好きなひとには分かることだろう。

禅では座禅を組むが、そのとき、必死になって考えを追い出そうとはしないらしい。思念をなすがままに放っておくのだそうだ。

力みというのは執着に直結する。

がんばらなければ、と思ってしまうのであれば、そのまま置いておくのがよいだろう。変にいじくる方が執着だ。

では、また!

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