日記の書き方。自分の日記を読んで思ったこと。作家の日記とともに。

エッセイ

日記には書き方というものはない。好きなように書いて行けばよい。

でも、私は自分の日記を読み返してすっかり自信をなくした。

遠藤周作は、日記の中で批評を試み、創作の構想を練っている。

グレアム・グリーンは自分が見たものを書き留めている。

良い日記とは外へ向かうようだ。

作家の日記と私の日記。

毎日、まめに日記をつける作家は珍しくない。

文学者の個人全集にはよく日記の巻が設けられている。

日記であるので、ほんの二三行ですましている場合が多い。

私は、二十代のころに遠藤周作を集中して読んだ時期があり、彼の日記も当時出版されたものはだいたい読んだ。

遠藤さんは評論家でもあるので、日記にも批評のメモ書きが書かれてある。

ほかに創作日記というものがあって、書くことを予定している小説の構想、そのために必要な資料などがメモ書きされている。

ただ日々の出来事を、時系列に並べてあるだけではなくて、その時々の遠藤さんの思想も現れて、非常の動きのある日記となっていた。

私が、日記をつけ始めたのは、ちょうどそのころ、遠藤さんの日記に触発されてからだった。

私も作家を目指していたので、何か批評的なことを日記に書いて行けば、小説の方の力量も上がるだろうと考えていたのだ。

そのころの日記を読むと、勉強に励んでいたということもあって、非常に生き生きとしている。将来に対して何も疑っていないようだ。

ゴッホと比べるのはおこがましいかもしれないが、ゴッホの一番、脂がのっていたときと、楽天的なところはちょっと似ているようなきがした。

でも、日記にも慣れてくると、自分の悩み事が増えだした。

将来の不安ばかりでなく、読書計画のこと、自分の病気のこと、どれだけ暇をしているのだろうかと、自分が恥ずかしくなるくらい、小さなことを長い期間にわたって悩んでいる。

可能性は低いが、仮に私がかなりの出世をして、将来、私の日記の出版が計画されても、編集者はきっと私の日記を実際に読んだ時点で「これは無理だ、本にする価値がない」とぼやくに違いない。

かなり一般的なことをかなり一般的な程度に悩んでいるに過ぎないのだから。

私はこの記事を書くにあたってひとつやふたつ日記から文章を引用しようかと思っていたが、それさえも少しためらいを感じる。自分の日記に自信がない。

例えばこんな文章「朝から賃貸の契約の作業があり疲れ、頭も混乱している。だが、それもつぶさに語ることはやめておこう。疲れというのは意識すればするほど、神経を病気にさせてしまう。反対に疲れも意識しなかったら、疲れとはならない。疲れてもそれが多少のことなら、前をむくことも必要だ」お疲れさんと、自分にいってやりたい。

でも、万事こんな感じで日記は続いていく。自分のことしか語っていない。

日記なのだから、それでも確かに良いのだけれど、もっと他に見たものはなかったのだろうか。

ついさっき、グレアム・グリーンの日記をちらほらと読んだ。彼は、見たものを短い文章で書き留めている。

あらためて作家とは観察するのが商売なのだと思い知らされる。

ある種の作家は、自分の内面にはさほどの興味を払わないのかもしれない。

自分のことより、世界で何が起こっているかのほうが重要だ、と豪語するひともいる。

グレアム・グリーンにとって世界は自分の虚無感の反映でもあった。

ひとは見たいものを見るというけれど、見ているものは過ぎ去る。

グリーンはそうとでもいいたいのか、あんなにアクティブに動き回っているのに、彼の文章は事物から距離を取ろうとするのだ。

グリーンのように、おそらくあえてだろうが淡白といっていい文章を書くのは難しい。

日記といえども、自分の澱を書いてしまう。

作家らしく観察するにはあえて淡白というのが良いだろう。

では、また!

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