やけくそになってしまうときがある。
私も長年この気性に悩まされてきた。
でも、それは文章を書くと改善された。
言葉というのは社会的なツールだ。みなの共通の理解がそこにある。
言葉を知るというのは自己の社会化、客観化。
客観的なところにやけくそなんてないよね。
言葉は物事を対象化する。
やけくそになることってみなさんはありませんか。
私は信じられないのだけれど、なかにはそういう経験がないひともいるらしい。
いつも平静で、事務的で、腹が立っても失敗しても自分のなかでちゃんと処理をする。
ああ、尊敬するわ。
いやでも、そういう人のほうが一般的なのかもしれない。
会社でも道歩いていても、「ちくしょう!おれの人生終わりだ!」って叫んでいるおじさん見かけないよね。
だからみんなちゃんとしているんだ、静かに生きているんだ、少なくとも、表面上は。
でも、私は、長年このやけくその病に悩まされてきて、それがとくにひどいときはまともに振舞いにでる。
子供のときからそうだった。
絵がうまく描けないと、筆を投げたり、先生に八つ当たりしたりした。
大人になっても、何か失敗すると「だめだ、だめだ、だめだ、死にたい、死にたい、死にたい」なんてひとに聞こえるのもおかまいなしに、道でぶつぶついっていたりする。危ないよね、こんなひと。
でも自分を無秩序に放っておくのは、いかに無精な私でも嫌なので、いくつか方策を立てて来た。
そのひとつが文章を書くということだった。
いや、方策を立てたというのは嘘です。結果的に文章を書くと、やけくそ病は平癒して行ったのです。ばんざい、さようなら、やけくそくん。
文章って不思議なもので、書けば書くほど内省的になっていくし、内省的になっていけばやけくそになるような感情的な荒みも起こらなくなる。
言葉を持つということはそれだけ物事を対象化するということだ。
それまでただ苦しいだけでしかなかったことが、意味を持ち、カテゴリー分けされていく。
自分というものを他者として語ることができる。
いうなれば、言葉って精神科医みたいなものだよね。
言葉を知る=社会化
でも、ものごとって一朝一夕にはいかなくて、文章を大量に書いたところで、やけくそになるときはなるものだ。
この前も、ブログ記事がしくじって「俺の人生終わったよ、へ、どうにでもなれ」という気分になって、あまりにしんどいときは「お母さーん」と叫んでいた。中年男の魂の叫び。
精神は荒む、人生に意味はない。
ただ、習慣というのはすさまじくて、やはり文章は書き始めるものなんだ。
ものを書くというのは不思議な効果があって、うまくいかないときスランプにあるとき、あるいは絶好調のときでも、それを冷静に見られるようになる。
いわばもうひとりの自分が生まれるわけで、この部分が時間を経るごとにより独立した存在に思えてくる。
あるお坊さんが、座禅を組んでいると、自分が考えていることを自分で見られるようになるといっていた。もの書きもこれと同じかな。
先に、言葉をもつということは、物事を対象化するといった。
言葉とは社会的なツールともいえる。共通に理解しているところのものを使って意思疎通をはかるのだ。
だから、言葉をたくさんもつとは、より社会的になるということだ。
言葉を使っての物事の対象化とは、つまり社会化のことだ。
自己を社会化する。共通の理解のもとに落とす。ここに主観はない。客観的なところに激情も混とんもない。
もっとも言葉ってそれ自体感性をもっているから、主観的な道具でもあるんだけど。
でもそれは別の話。
とかく、やけくそになりやすいひとは、言葉を知り文章を書くこと。文章上手い人が突然キレるってあんまないよね。
では、また!
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