自炊も慣れるものだ。
私は体が弱いので、生活全般は何でも苦痛なのだが、特に料理を作ることが辛かった。おまけに、めんどうくさい。
しかし、「慣れる」ことも身体的なことであるので、体さえその作業に慣れてしまえば、ほかに考えるべきことはなにもない。
体に注目する。生活の身体性。
「慣れる」も身体的なこと。体の変化に注意深く。
ひとり暮らしをしてもう数年が経ってたいていのことにはもう慣れてしまった。
掃除、洗濯、料理、といろいろとやらねばならないことはあるけれど、いまではもう歯をみがくように当たり前のことのように感じる。
慣れるということほど人間にとって都合の良いこともないのだろう。
新入社員も三か月くらいしたら仕事に「慣れる」し、スマホに乗り換えても一週間もすれば「慣れる」、それと同じように盗人は犯罪に「慣れ」てしまうし、誰か困っているひとがいてもたいていのひとはそれを無視することに「慣れ」てしまう。
あまりこういう話題を敷衍すると、話がどんどん大きくなっていきそうなので、このあたりでやめるけれど、しかし、この「慣れる」おかげで、私は助かった。
自炊は面倒。おまけに私は体が弱いので、立ってしばらく料理をするとなると、かなり苦痛。
だが振り返ると驚く、人間、苦痛にも慣れるし、それに慣れたら苦痛でなくなる。
ひとり暮らしをした当初、まだ病院から退院したばかりで、体調がかなり悪かった。
ちょっと散歩に出るのも辛かった。
先に書いたように自炊がもっとも苦しかった。
だが、半年ほどしたころだろうか、苦痛でいることが当たり前になったのか、自分の生活がそれほど特殊なものではないように思えてきた。
もちろん、めんどうくさい自炊もそれとして淡々とこなせるようになった。
いまでも身体上のいろんなことは苦痛に違いないのだろうけれど、苦痛というものの概念が変わってきている。これも慣れるということだろう。
先日、田中慎弥の「孤独論」というエッセイを読んだ。意外といえば失礼になるかもしれないが、彼は自分で料理をつくるのだそうだ。
そして、健康に生きていくために、自炊の重要性を説いている。
人間の生活とは、いかに精神的な営みが重大なように思われても、それをひっくるめて身体という一言でまとめることができる。
精神的な活動も身体に依存している。
炭鉱におけるカナリヤと同じように、作家も時代の危機を知らせるものだ、と田中さんの著書にはあった。
そして、それも身体的なことだ。慣れるということも、当たり前だけど、身体的なことだ。
でも、この当たり前のことがよく見過ごされる。
「慣れる」を精神的なものと見てしまう。何か、精神的に成熟したとか、人間としての幅が広くなったとか、と考えてしまう。
そういう面もあるかもしれないが、「慣れる」を身体として見ると、それは単に体の機能が改善されただけの話だ。
同時に、「慣れる」ことができない何かがあっても、体に無理があるだけで、それ以上の意味はない。
失敗した、と精神的に落ち込む必要もない。
自炊を続けてもう四年くらいにはなるけれど、最近は動きがテキパキとするようになってきた。
体が「慣れ」ることからさらに先へ行ったのかもしれない。
テキパキしてくると、緊張感も出てくるし、そうすると、他の作業もはかどるものだ。メリハリといったりする。
これも身体的なことだ、一段偉くなったような気もするが、身体の変化にすぎない。
でも、これからこの記事を書き終えたら買い物に行かねばならない、考えるとめんどうくさい。これは観念的なことだ。
身体への注意深さから離れると、とたんに何でも苦痛になってくる。
体は正直とはよくいったものだと思う。
今日は水曜日なので、ラーメンを作る。簡単な料理。食い過ぎると太るが、これも身体性だ。
では、また!
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