考え事で忙しくなると、落ち着いた生活ができない。

エッセイ

考え事をしだすと、自分の世界に没頭するあまり、周りの小さな変化に気づくことができず、気持ちも落ち着かなくなる。

生活を落ち着かせるためには、日々のちょっとした周囲の変化に注意深くなる必要がある。

注意深くなるには、ゆるく生きる必要がある。

考え事をしていると周りの景色が目に入らない。

最近また考え事が多くなって、そのせいか周囲の景色が目に入らなくなってきている。

碌なことを考えているわけでもないし、悩み事でしかないのだから、すぐにでもやめてしまいたのだけれど、やめようとすればするほど、頭のなかは忙しくなってしまう。

困るのは、それで散歩が楽しめなくなってしまうことだ。

ものを考えると目ん玉は内側にひっくり返ってしまうのだろう、自分で作り出した映像ばかりを見てしまい、自分の周囲で花が咲いていても、鳥が鳴いていても、まったく気が付かないのだ。

これはいかにももったいない。花も鳥もその季節にしかないものがほとんどであるので、その日のうちにぜひこれを愛でておかないと次の日には景色が一変しているなんてこともある。

それに比べて、自分で作り出した考え事など、日時なんて関係ない、体力さえあれば嫌でもそれに付き合わされてしまう。

私はもっと自分を落ち着かせて、日々の小さなことに注意深くありたいと思う。

先日、小沼丹の尾崎一雄に関するエッセイを読んだ。

そのなかで「尾崎さんの文章を読むと、日常の何でもないことを大切にして愉しんでいるのが判る」という一文を見つけ、はっとした。また「これはなかなかできないことである」ともあった。

そうだ、静かに生きて、生活の細々としたことを深く味わいながらいきることはなかなかできがたいものなのだ。

ひとは何かについて野心をもつし、野心をもつと悩み事が増えるし、悩み事が増えると、周囲の人間も風物も後回しになってしまう。

考えることは、自分自身に関係することばかりになってしまう。

そんなことにいくら励んだどころで、平穏は一向に訪れないし、平穏がなければ幸福もない。

昔から、文学は皮肉をもってそれをよく描いてきた。

ちょっとしたことに注意深くなること。

今朝いつものように早く起きて、洗濯物を干していたのだけれど、不意に鳥の声が聞こえた。

私は不勉強で、鳥には詳しくないので、それが何の鳥の声かは分からなかった。

リズムに変化の大きい鳴き声だった。

私は、いつまでもそれを聞いていたいなと思ったが、すぐに自分の世界に没頭してしまった。

もう夏から秋に変わろうとしているので、活動する動物たちも、その様子が変わり始めている。

生活を自然とともに営んでいるひとなら、その変化にも敏感で、新しい発見に日々楽しむこともできるだろう。

でも私にはできない。考えに忙しい。

これに原因がないではなかった。

私は調子が良くなると、予定を詰め込み過ぎる傾向があって、それにがんじがらめになってしまうのだ。

今朝もそうだった。

昨日立てたスケジュールがあまりにタイトだったので、実行に不安を感じていたのだ。

ものごとというのは、案外こういう単純なことに原因があったりする。

自分に絶望し、他人を羨んで、生きる意味がないと嘆いても、実は単に腹が減っていたり、単にビタミンが足りていないだけだったりする。

ちょっとしたことに注意深くあらねばならない。ちょっとしたことに注意ぶかくあるためには、普段からゆるく生きていなければならないだろう。

野心を燃やしてがちがちに力んだ生活をしていては、失敗してもそれに気が付かないし、あるいはごまかして点検しなかったりする。

ゴッホも野心など何でもないことだといっている。

野心など何でもない、むしろ、自然と一緒に過ごしたいなら、野心なんて邪魔者でしかない。

では、また!

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