桜の歌[短い小説]

小説

葉桜の季節になって、ようやくほっとするのだった。

三船京子は、そんな自分をへそ曲がりだとか、感受性が鈍いだとかと思ってみたこともあったけれど、やはり、葉桜の季節がよかった。

ソメイヨシノはすっかり緑になって、京子は幼馴染のしずかを花見に誘った。

しずかは分かっていてもはやり文句をいうのだ「花見じゃなくて、それは単にピクニックだよね」確かに、桜の木もう花の余韻はもうなくて、道端にも落ちた花の残りかすもなかった。

でも、京子は、この季節、しずかを外に誘うときいつも「花見」というのだった。

平日だったので、公園の駐車場は空いていた。車から降りるとき、しずかは仕事の話から急に話題を変えて、「あいついたらどうする?」と訊いた。そういわれるまで、京子は「あいつ」のことは頭になかった。不慣れな運転中は、しずかの仕事の話も上の空だった。

「まあそんときは、そんときで。カフェもあるしね」

京子は、この公園の係員のことを思い出していた。去年の「花見」で、原っぱの脇の木陰で弁当を食べていたとき、自転車に乗った老人が彼女らのそばまで来た。老人は日に焼けて、まだ少し早いと思われるのに、半袖の作業着を着ていた。キャップ帽を目深に被り、縁の黄色い眼鏡を掛けている。彼は、京子たちを見て、いいですね、といった。京子は、男が公園の係員であることを示す腕章をつけていたので、ここで食事をしてはならぬと、咎めを受けると思っていた。でも男は、そういったあと、どこから来たのか、何の目的で来たのか、と訊ねるのだった。しずかが不審に思って、場所を移ろうといって、ふたりとも腰を上げた。そこから、ちょっと歩いたが男はついてこなかった。ただ、後ろから大声でこういった、

「日が暮れるまでいると、桜は歌いますよ。この季節にしかないことです」

このときは、不審者に話しかけられた不快感から、昼食を終わると早々に帰った。

桜並木はやはり青かった。ふたりは、その根の原っぱにシートを敷いて、持って来た、ドーナッツの箱を開けた。もう三時を回っていて、昼食の時間ではなかった。しずかは会社で食べて、京子も午前中の仕事が終わってもう昼食は軽く済ませていた。

木陰は涼しかった。日向はすっかり陽射しがたくましくなって耐えがたかったが、陰はまだ春だった。

話しは、自然、去年の自転車の老人の話になった。しずかは、あれは病人だといった。会社に妄想がひどくなって、辞めて行ったひとがいて、それに言動が似ているといった。

「かわいそうかもしんないけど、やっぱこっちも恐いよね。分かんないからさ」

「生活たいへんだろうね」

京子はドーナッツをほおばりながら、上の空だった。

頭上の青い葉っぱがステンドグラスのように陽をすかしていた。ちらちらと木漏れ日が彼女の目にまぶしかった。

そのあと、公園の喫茶で、コーヒーを飲んだ。店を出るときは六時だった。

西日が木々の陰を奪っていた。彼女たちは駐車場へと向かった。

何かいった? としずかが訊いた。京子はしずかのほうが何か口ずさんだのだと思った。

ふたりは、脇の桜の木を見上げた。

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