困難さをメディテーションする。

エッセイ

「渡る世間は鬼ばかり」とはよくいったもので、生きていると、さまざまな困難に見舞われる。

日常生活の困難さは、非常事態のそれに比べて、緊急ではないにしても、非常に複雑で解決が難しいように思われる。

しかし、困難さを感じる「自分」がいなくなればどうか?

僕らの現実は、「渡る世間は鬼ばかり」

生きていると、さまざまな出来事に巡り合う。

「渡る世間は鬼ばかり」というドラマが昔あって、かなり人気であった。タイトルにある通り、大小含めて良くないできごとがしばしば起こるドラマだった。

僕は、小学生の時に祖母がそのドラマを熱心に観ている横で、ゲームボーイをして遊んでいたが、ろくでもないことばかり起こるこんなドラマをみて何がおもしろいのかよくわからなかった。

ひとの苦労は蜜の味というが、ドラマでその疑似体験でもしていたのか。

僕はテレビドラマはほとんど観ないので、あまり良く知らないが、テレビで放映されるプログラムすべてはその時代の世相を反映しているとはよく聞く。

「渡る世間は鬼ばかり」もテレビ番組である以上、何かしらの現代を映していたはずだが、祖母はどのように考えていたのか。自分にもいろいろあったと振り返っていたのだろうか、それともたんなる気休めとして、他人の苦労話をみていたのだろうか。

「渡る世間は鬼ばかり」とはよくいったもので、そのように思ったら、たしかに人生はろくでもないことばかりのようにも思えてくる。ひとには裏表があるし、何か努力してもたいていのことは水の泡で終わる。旧約聖書のコヘレトの言葉にあるように、「すべてはむなしい」というのが、この世の中(日本でいえば世間)の実際のことだろう。

しかし、現実というのはどのようにそるを見るかで、まったく感じ方が変わってくる。今日はメディテーションの観点から、「困難さ」について話してみようと思う。

日常の困難さは複雑。

「渡る世間は鬼ばかり」といってもドラマ上で奇想天外な、あるいは天変地異のよう災難が降りかかるのではない。むしろ、夫婦間、嫁姑間のちょっとした行き違いの苦労を拡大して描いている。天変地異というと地震など自然災害、あるいは戦争などの人災などがイメージしやすいが、当然だがこれは大変なことだ。人の生き死にに関わることで容易には語れないことも多い。

しかし、非常事態というのはひとの使命感を掻き立てるところもあって、平時では予想もつかないほど人はその状況に適応する能力をもっている。震災において人間関係がかえって密になったりするのもその一例である。

しかし、そうした天変地異とは一見、無関係であるように日常生活においては、困難さはより複雑になる。

例えば、仕事場での人間関係。

誰かが大きな迫害にあっているのでもない、給料が極端に低いわけでもない、職場が物理的に危険に見舞われているのでももちろんない。そう考えると、恵まれているはずなのだが、どうしてか息苦しさを感じる。

そうして、こうした微妙さ加減の違和あるいは困難さというのはなかなか慣れないのだ。

職場の同僚がなんとなく嫌いということがある。憎いわけでもない。相手の事情も分からないわけでもない。しかし、どうしてか耐え難い、不安である。

こんなときの対処法は、人間関係に対してニュートラルでいることしかない。ある有名な精神科医(彼はYouTubeもやっている)は、職場のひとと友達にならないほうがよいといっている。

職場は、英語ではofficeといったりするが、そういう場は、publicとも表現される。また公になることをofficialという単語を使うがこれはofficeの派生語であることは見て分かる。つまり、会社、仕事場というのはパブリックであり、プライベートの反対ということだから、ここに私的な関係性をもちこむと、どうしても何かしらの相反関係が生まれるのは当然だ。

友人であり同僚のBさんが自分より早く昇進しとき、妙な上下関係が生まれて関係が疎遠になるのはそのわかりやすい例。

だからいみじくも精神科医がいうように職場はパブリックな場として置いておくのが賢い。

困難さは、非常事と平時とで大きな違いがあるが、平時においてもそこでのバリエーションはさまざまだ。先に挙げたように同僚が不愉快というのもあれば、自分自身が好きになれないというのも立派なひとつの困難さである。

しかし、平時の困難さの種類がさまざまであっても、その対処の方法には共通点が多い。金がなくて困っているときと、自分の性格が嫌いで困っているときでは、まるで原因となるファクターが違っているように思えるが、困っているのが「自分」という点では共通している。

つまり、「自分」が困っていると感じなければ困難さは存在しない。金がないとそれは大変だ。しかし、その状況を「大変」あるいは「困難」と受け取らないひともいる。または、金がなくて困っているはずなのに、それをまったく感じないときもある。寝ているときがそうだ。自分の性格にケチをつけて困っていても、仕事に熱中しているときはそのことを忘れている。

ここまで読んだひとならおそらく僕がいうことを予想できるだろう。ようするに、自分というものがはたして自分が思っているように存在しているのか、についてクエスチョンマークをつけるのがよいということだ。

「自分」がなくなれば、そもそも困難を感じることもなくなる。

自分がかすめば、困難もかすむ。自分が強固であれば、苦悩や苦痛もよりダイレクトに感じる。先に、人間関係で困ったときニュートラルにあるのがよいと勧めたが、より正確にいうと巻き込まれる「自分」を手放すということ。

これはすべてに無関心であれ、というのとは違う。無関心は自分の状態への過度の執着で、ニュートラルではない。

日本には暖簾に腕押しという言葉があって、暖簾のようにしなやかであれば、困難さにも流されないという。

しかし、暖簾は風にもなびく。けっして、無関心を装って自分にこだわっているのではない。

さて、結論だけれど、そうは言っても困難はしんどいし避けられない。それは死ということ以外に人生に退場がないのと同じ。

いかに自分を無にしても、椅子で小指をぶつけたら痛い。しかし、痛けりゃ痛いとそれでよしというのもメディテーション、修行だろう。

先人は、人生から逃げたのでは無くて、イリュージョンを手放そうと瞑想にはげんだ。

イリュージョンとは困難に正面からぶつかることだ。恋人がいないときに寂しいと嘆くことだ。

しかし、ふと目をあげると、のぞんても願ってもいないものが見えることがある。

メディテーションのゴールは誰にも分からない。自分でない自分というのがいかにもつかみどころのないのと一緒だ。

では、また!

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