エッセイ

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作家の落ち着いた生活。規則正しい生活と作品との関係。

作家のなかには、意識的に、落ち着いた生活をしようと心がけるひとがる。そして、当然ながら、規則正しい生活は作品にも影響してくるものだ。相関関係がある。庄野潤三さんは、自覚的に、静かに生きようとした作家のひとりだ。彼の個性的な作品は、彼の生活の反映となっている。
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書くことの喜び。書くことは音楽、その快感。

書くことにも快感はある。言葉には、音があるので、それが連続すると、メロディとなるのだ。役者は、三日やるとやめられなくなるというが、それは彼の体が音楽を刻んでいるから。小説を書くことも同じ。彼の体は楽器となっている。そして、音は脳を刺激してやめない。
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優れた作家が後世に読まれるとも限らない。読まれる作家は俗なるもの。

優れた作家が死後も読まれるとは限らないのは、本屋に行けばよく分かるものだ。私はひところ中上健次をよく読んだ。彼はまぎれもなく優れた作家だ。けれど、現代では一部のファンを除いて誰も読まない。彼はあまりに文学に純粋でありすぎた。読者は分かりやすく譬えないものを嫌う。
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日記の書き方。自分の日記を読んで思ったこと。作家の日記とともに。

日記には書き方というものはない。好きなように書いて行けばよい。でも、私は自分の日記を読み返してすっかり自信をなくした。遠藤周作は、日記の中で批評を試み、創作の構想を練っている。グレアム・グリーンは自分が見たものを書き留めている。良い日記とは外へ向かうようだ。
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小さな幸せを大切にする。上を向くのではなく、下を見る。

日本人は小さな幸せを大切にするのだといわれる。ご飯を食べて幸せ、良い天気で幸せ、お風呂に入れて幸せ。ビジネス書にはそれと反対のことが書かれている。とかく、遠いところに目標を設定するように促している。でも、私は幸せは上にはなく、足元にたくさん転がっているようなものだと思う。
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日記ブログという文芸ジャンル。ただ自分のことを語る。

日記ブログという文芸ジャンルがあっても良いと思うのだ。日記ブログは、エッセイのように型を意識しなくて良いし、日記のように閉じていない。つまり、よりも自由に書けてより外に開かれているのだ。ブログの強み。ゴッホの手紙も日記ブログのようなものだ。ただ自分のことを語っている。
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ゆるいインターネット。スローなものを書いていく。

ゆるいものを日記のような形式で書いていきたい。インターネットは速さに満ちている。そしてその速さは、ひとの自立性までも失わせると、宇野常寛は著書「遅いインターネット」なかで述べている。私はスローに書きたい。遅いでもない、ゆるいインターネットを目指したい。
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英語を学ぶ理由。異文化能力の向上を目指す。

英語を学ぶのも大変な作業なので、そこには理由がなければならない。異文化能力という新しい概念がある。海外への開かれた関心と、自己を批判的にとらえる能力のことで、EUでは教育にこれが取り入れられている。多様性は人格にも影響する。多様性だけでも外国語を学ぶ理由にはなる。
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文章は難しい。山川草木になるように書く。

文章は難しい。文章を書くひとはそこに意図を持ち込む。野心とか虚栄心とか。しかし、そうなると自然体でなくなる。山川草木から離れる。良い文章というのは邪念がないものだ。すっと書くものだ。山川草木がただそこにあるように、文章も自然にならなくてはいけない。
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眠られない夜。つらい、でもそれも神秘であるようだ。

眠られない夜は誰もが経験する。つらい。考えてもしかたのないことを考え、疲労ばかりが蓄積せる。そして、時に死を思う。それも、神秘ということはできる。精神の試練(浄め)は苦痛に満ちているもの。苦痛によってしか、人間は変わることはできない。神秘とは苦しみなのだ。