エッセイ

エッセイ

考えは手放せないもの。そういうものだと自覚する。

ぐるぐると同じことを考えているから、落ち着きがなくなる。だから考えないでおこう。それはしごくまっとうな考えだと思う。しかし、やはり考え事をやめようと思うのもひとつの考えなのだ。思考ほどコントロールしがたいものもない。
エッセイ

書きたいことはなくていい。文体と世界観。

文章を書き始めたひとがまず初めにぶつかるのが、何をどのように書いたら正解かということだけれど、こと文章を芸術と考える場合、そこに明確な答えというものはない。何をかいてもいい。文体を持ってさえいれば、文章の方が何を書けばいいか教えてくれる。
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欲望は際限がない。貪欲、傲慢、虚栄心に気をつけること。

欲望には、際限がない。貪欲、傲慢、虚栄心、そういったものは、人間の宿痾でたいそうコントロールの難しいものだ。私は、最近、英語が飛躍的に伸びた。それによって、様々な夢や欲望が動いたが、庄野潤三やリルケならどうしたろうか。貪欲にも気をつけないと詩人としての在り方を見失う。
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よく分からないから、おもしろい?

休日、大阪に行った。午前中は本屋に行って、売れている本を見て回った。なぜ売れるのかはっきり分からない。それがいい。午後、美術館に行く。押して歩く壁の作品があった。よく分からない。それがいい。その前に、蕎麦屋に行った。店主は不機嫌だった。分からない。これでいいのか?
エッセイ

知識人にならなくたっていいや。

なまじ物書きとしての活動をしているので、勉強して必要な知識は獲得しなければならない。でも、これがたまにうっとうしい。私は、芭蕉や良寛のような流浪の詩人に憧れ、彼らが知識人でなかっただけに、自分の努力が無駄のように思えて来る。暇だからそんな悩みも起きる。
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怒りについて。

怒りというものほど、征服しがたいものもない。先日、あるひとにメールを送って、無視され、憤怒した。しかし、怒りの原因は、変に私が自分自身を高く見積もっていたことにあるようだ。上下関係は、怒りのもととなる。でも、自分などたいしたものではない、そう思わないとしんどい。
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腹が減ったときに、腹が減ったというだけのエッセイ。

いつものことだけれど、早起きしたので、いま、腹が減っている。これも、腹が減ったというだけのエッセイになりそうだ。現代人にとって空腹はもう異常事態だ。腹が減ったら何か補給しなければならない。江戸時代、百姓はずっと空腹だった。世の無常を悟ることもそれで多かったことだろう。
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日記ブログという今後の展望。

日記ブログという発想が最近にさるまで思いつかなかった。ずっとエッセイを書いて来たのだが、それをnoteでも始めたので、このブログとの差別化が必要になった。日記はいい。型がない、自由だ。それだけに書き手の人間性が如実にでる。このブログでそれを試したい。
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戦略は遠くに、計画は近くに。

戦略は遠くに、計画は近くに、というのは当たり前のことだ。計画というのは現状分析も含まれる、戦略はそれを踏まえて展望を描くことだ。けれど、現状分析に熱中すると、展望を忘れてしまうことがしばしば。しんどいと思ったら、足元ばかりを見ている場合が多い。目を上げること。
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やりたいことをやる場所も作っていかなければないないよね。

戦略を立てて、一応の方向性を決めてしまうと、好きなこと、やりたいことが制限されてしまう。しかし、アーティストならば、自由に自分の幅を広げられるような場所も必要で、私にとってそれはこのブログなのだ。誰かに、観られるとか、評価されるというのはここでは重要ではない。