エッセイ

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物語の中心はありふれた日常であったりする。

物語の中心は実は、ありふれた日常の風景であったりもするのだ。吉田篤弘の小説に「月と6月と観覧車」という短編小説がある。この小説には猫が登場する。そして、猫が話を膨らませて行く。日常というものは、小さな事象の連続であるのだが、実は何でもないそうした日常の出来事が僕らの生活を支えている。
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朝活のススメ。夜に悩まない、朝に活動する、これが、もっとも生産的。

夜にぐだぐだ悩んでないも解決しないのに、朝起きてみると、自然に頭のなかが整理されていたという経験をしたことはないだろうか。夜は抽象的にものを考えるので、思考が際限なくふくらんでいく傾向にある。そのくせ同じことを考えていたりする。一方で朝の爽快感は論理性を育む。やっぱり朝活がいい。
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マインドフルネスは外にあるのではなく、もうすでに内に持っていると考える。

マインドフルネスを外にあるものと考えると、とたん、苦しい作業に追い込まれる。マインドフルネスの指導者であるアンディ・プディコム氏は言っている、「青空はすでにある」。つまり、マインドフルネスはすでに内にあるのだ。では、何もしなくていいのか?それについて考えた。
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幸せは外から来るのでなく、自分の内側にすでにあるということ。

幸せは誰しもが求めることだ。幸せになるために金儲けをし、金儲けのために勉強もし、身を粉にして働く。幸せが外からくるものと考えると、はっきりいって、金儲けくらいしかそれを得る方法はない。しかし、幸せとは内面の感情の動きのなかにしかない。それを悟るにはいろいろことを捨てる必要がある。
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毎日を小旅行と考えるうれしいことが起こる。

毎日同じような日が続き退屈したり、鬱屈してきたりする。そんなとき、ひとは旅に出たいと思う。旅はいいものだ。でも旅だからといって、贅沢をする必要はない。日常の延長でいいし、そう考えられたら、日常も旅の延長のように思えてくる。変化は常に足元にある。
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アメリカ人のポジティブと日本人のナチュラル? ポジティブシンキングは不自然?

英語でブログを書くようになって、多くの英語で書かれた記事を読むようになった。アメリカ人はほんとうにアグレッシブでポジティブだ。弱音を吐けるだけのスペースがまったくないようでもある。しかし、phaさんの本にあるような力まないエッセイも僕は必要と思うのだが。
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お金への執着を捨てるのは、ほとんど不可能という話。

執着にも色々とあるが、お金への執着というものは、もっとも捨てるのが困難なものだ。お金とは、概念である。それ自体、物質ではないのに、それで様々な物やサービスが買える。金への執着から自由になろうと思うなら、良寛やフランチェスコのように生きねばならない。でもそれって可能?
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瞑想は変化も安定ももとめない。マインドフルネスはすでにあなたの中にある。

瞑想を始めたときの動機というのは、みなはっきりとしているだろう。悩み事を減らしたいとか、集中力を高めたいとか。しかし、著者のアンディさんにようると、求めるこころでは、安定は得られないのだ。不快なことを恐れなくなってはじめて静かになれる。
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十分間のメディテーションで瞑想を習慣化する。

アンディ・プディコムというマインドフルネスの指導者は、短い時間からの瞑想を始めるのがいいと説いている。何事もそうだが、欲張って、長い時間とエネルギーを費やしても続かない。まずは、十分間瞑想から。不思議と、瞑想に慣れて来ると、自然とその時間を求めるようになる。
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シンプルに生きるのは難しい? ミニマルな魅力と困難さ。

シンプルに生きるのは、案外難しいのもで、シンプルさに執着するあまり、余計に混乱が生じることもある。ミニマリズムもラディカルになると、生活にリスクが増える。哲学者がいうように中庸こそが、生きるカギだが、それを悟るのも、一朝一夕にはいかない。