日記ブログという今後の展望。

エッセイ

日記ブログという発想が最近にさるまで思いつかなかった。

ずっとエッセイを書いて来たのだが、それをnoteでも始めたので、このブログとの差別化が必要になった。

日記はいい。型がない、自由だ。それだけに書き手の人間性が如実にでる。

このブログでそれを試したい。

noteと差別化するために日記ブログという方法。

一か月間、何も書かなかった。書くという気分ではなかった。まったく書いたものがなかったのかといえば、そうではなく、小説の続きを少し、あとは体が鈍らないようにと日記をもう少しと書いたくらいだ。

ちょっと話は変わるのだけれど、このブログで日記のようなものを書いて行きたいと思っている。

というのも、ブログというのは、SEOと呼ばれているGoogleに評価されるような書き方をしないと、記事がそもそも検索エンジンの上位に表示されないようになっていて、それは年々、細かくなって競争も激化しているので、なまじ趣味的にやっているだけでは、書いた記事を不特定多数のひとに届けるのはもう困難なのだ。

で、私は趣味的にやっているものだから、あくまでSEOはやらない、でもブログは読んで欲しいと考えている。わがままだけれど、とかくSEOなんてやる余裕も時間もないから、こういう路線しか踏めないのだ。

ブログはもう、指名検索を期待するようにしている。指名検索とは、そのブログサイトを求めて検索することで、漠然と情報を求めていることではなく、あくまで、読みたいサイトがはっきりしている場合にあてはまる。

ようするにそういうひとは何かしらのそうしたサイトのちょっとしたファンなのだ。私もファンが欲しい。いや、ファンがいないことには誰も私のブログサイトには訪れてはこない。

一方で、私はnoteというプラットフォームでエッセイを本格的に始めたから、考えなければならないのは、このブログとの差別化だった。同じものを書くならば、どちらか一本に絞った方がいいし、そうなればこのブログは必要でなくなる。でも苦労して作ったから、捨てがたい。

そんなわけで、このブログもちょいちょい活用して別のものを書いて行きたいわけだけれど、そこで思いついたのが日記というものだった(といって毎日書くわけではないから、週記とかになりそうだけれど)。

日記というのは気楽なものだ。型を考えすぎなくてよいし、気分のまま書きたいことを書けるのも、エッセイや小説よりも日記だ。

しかし、それだけにそのひとの人間性というのが如実に出てしまうのも日記だ。私は作家の日記を読むのが好きで、特に二十代のころ好んで読んだのは遠藤周作の日記だった。

彼はかなり学究的で、読んだ本の感想、考えたこと、小説の構想など、批評も交えながら、けれど、正直書いている。誤字脱字もあったりする。

私ももし書くなら、遠藤さんのように長い時間、読むに耐えるような日記にしたい。ブログって本来そのためのものだよね。

今日は、noteのエッセイとこの日記めいた文章とを書いたのだけれど、こうしてまとまった文章を書くのは一か月ぶりだ。書いている時間よりも書かないでいる時間のほうが苦しい。

それは川上未映子もいっていた。書けばすむのだけれど、どうしてか書かないのだ。おそらく怠惰もあるだろう。

けれど、書かない時間に考えたこと、感じたことは、作品にはかならずプラスになる。

そういう意味で、クリエイターは、必ず、何もせずひたすら苦しむ時間も作っておかなければならない。忙しいだけというのは、実は楽であったりするのだ。

日記といいながら、オピニオンばかり書いてしまった。それもいいだろう。

このブログのコンセプトはそもそも自分語りにある。私自身を語る。日記であっても、エッセイであっても同じことだ。

では、また!

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